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2014年 11月 28日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇4.不連続統一体 ヨシザカは造語の名人、というより詩人だな、と思うことがある。 この「不連続統一体」という言葉もそうだ。 DISCONTINUOUS UNITY、略して DISCONT。 本人も「<絶対矛盾的自己同一>といった言葉のもつひびきがこの名称の中にも呀するのが、何となく気に入ったのであろう」と言っている。 西田幾多郎の哲学を出すまでもなく、この矛盾した言葉の響きは魅力的だし、そのイメージは詩的だ。 この言葉が生まれたのは、1957年サンパウロ・ビエンナーレ展のコンペ作品を学生と共に徹夜で仕上げている最中のことだが、それが明文化されたのは、その年の秋の大学祭の建築展を経た後の「今和次郎先生古稀記念論文集」('58)によってだ。 (当時の英訳は Discontinuous Continuity で、略してDIS-CONT だった。だからその後つくられたパンフレットの絵文字もDIS-CONT だった) そしてこの言葉はその時その時で柔軟に解釈の変更を許す。 たとえば、最初のパンフレット('62)では、 Doko demo Itu demo Sorezore ga Conna koto demo Omoikitte Nandemo Teian siyoo! (ヨシザカはローマ字はヘボン式ではなくいつも日本式を使う) だが、「都市住宅」75年8月号では、 D どれも C コースを進みつつ I いちにんまえに O おなじ S それぞれの N なかまとして T ちからを合わそう だ。 この言葉はデザイン論としても、組織論としても魅力的だ。 けして最初から単純明快な形や論理で解決しよう(もしくはそういうものを押し付けて簡単に済まそう)とする意図がない。また予定調和的なニュアンスもない。 現実をありのままに受け入れ、その凹凸を認めながら、それぞれの長所を引き出し、やわらかな自由なネットワーク型の形と論理を見つけだそうとする精神を感じる。 そのためにはただの現実追認ではなく、現実と格闘しながらより高次の形式と解決策を導き出す努力が必要となってくる。 毎回一期一会の精神が試される。大変な作業だ。 私はこの言葉を聞くと反射的にJazzを思い浮かべる。けしてクラシック音楽ではない。 各人がアドリブとインプロビゼーションで自由に演奏しながら、全体としてはなんとなくまとまっている、あの感覚だ。 別の言葉で言うと、「独立自由共和国」だ。 自分の事務所の名を個人の名ではなく、何をやってるのかさっぱりわからない「風の冒険譚」なる意味の名前に私がしたのも、そういう意図からだ。 30年程前にヨーロッパに放浪の旅に出た時、不遜にも私はヨーロッパを平らに全部理解しよう、そしてヨーロッパを(知的に)征服しよう、と思っていた。 だが始めてみると、逆にその凹凸は鮮明になるだけだった。 ある国からその隣り合う国に出かける度に、前と同じ部分と違う部分を毎回味わった。 それを肌に刻み込み、9ヶ月の時間を過ごした。戻って来てみると、地図の起伏のような感覚だけが私の身体に残っていた。 それらを微分すれば、すべては不連続な国々だ。 だが、積分すれば、欧州という大きな一塊の文化大陸になる。 世界は不連続統一体でできていると肌で感した。 矛盾を愛しよう。 不連続であることを誇りに思おう。 でも可能な限り心を合わせて一つになろう。 そう私はこの言葉を解釈している。 かずま
by odyssey-of-iska5
| 2014-11-28 17:47
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