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2022年 03月 30日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇29.「吉阪隆正展ーひげから地球へ、パノラみる」を見る 年度末の慌ただしい仕事の提出が昨日終わり、その足で東京都現代美術館でやっている吉阪隆正展を見に行った。久しぶりにヒゲと対話した。 この展覧会は、実は昨年、現美で行われるはずだったが、コロナ禍で1年延びた。 だから満を持して見に行った。今までヨシザカやU研究室の展覧会は、国立近現代建築資料館、建築会館、早稲田大学旧図書館、ギャラリータイセイなどで何度も行われてきたが、その中でも規模としては一番大きいだろう。既知のものがほとんどだが、未知のものもいくつかあり、見逃さないよう、慎重にゆっくり見て回ったら、4時間半くらいかかってしまい、閉館ギリギリに見終わった。途中で疲れて、(平日で、観客も少なかったので、)涸沢ヒュッテの映像は床に座って見た。 展覧会は7つの構成から成っている。 第1章:出発点 第2章:ある住居 第3章:建築の発想 第4章:山岳・雪氷・建築 第5章:原始境から文明境へ 第6章:あそびのすすめ 第7章:有形学へ カタログがまだできてないため(一般書籍として出版されるそうだが、)記憶を正確に検証できないが、最初の「出発点」がやはりおもしろかった。 私は何でも確立したものより、それ以前の、生成過程の方に強く惹かれる。それはヨシザカにおいても同じだ。ジュネーブで幼い頃に先生から受けた平和への教えを応召された中国大陸で思い出し、建築への志を強くする直筆の文章は感動的だ。 今ウクライナで同じように考える人もいるだろうと思うとなおさらだ。 こうした戦時下で平和を考える教育は当時の日本では当然行われておらず、父親が外交官であったため、日本とヨーロッパを行き来して、異なる言語と価値観を身につけていったからだが、こうした複眼的思考は後年のヨシザカの特徴となっていく。(ただ、当時は、自分は何者か?というアイデンティティの確立に相当悩んだようだ) 次の「ある住居」は、1955年に新宿百人町に建てられた自邸の展示だ。 この自邸の初期案は7年前に国立近現代建築資料館で初めて見たが、とてもスマートなコルビュジエの影響を強く感じさせるものだ。だが、実際できたものは不純物を多く含んだ、極めてヨシザカ的な建物だ。資金不足で、コンクリートの床と柱だけが最初にでき、それを眺めているうちに、今和次郎から学んだ生活学的な部分がどんどん大きくなり、ブリコラージュされていったのだろうか。 原寸大に引き伸ばされた断面図が面白い。居間の炬燵には私も入ったことがある。 この建物は普通で言えば3階建だが、ヨシザカ的には人工土地の上に立つ2階建で、1階は「地上」として皆に開放されている。庭には門や塀がなく、誰でも入っていける。こうした開放的な考え方や感性が、最終的に多くの人を惹きつけた理由かもしれない。 「建築の発想」はこれまでヨシザカとその仲間がつくってきた建物の展示で、図面や模型、写真、ディテール部分や現物のタイルなどが並んでいる。全て既知の作品ばかりだが、こうやって一同を改めて俯瞰しながら眺めてみると、デザインよりも発想に重きを置き、それを楽しんでる様子がよくわかる。2つの四角がずれながらピロティで地上を開放した「浦邸」、卍型のピロティが内部に流れを生み出す「ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館」、地形の急な段差を建物で解消する「海星学園」、強引に建物を持ち上げその下に市民広場を設けた「江津市庁舎」などなど。 こうした発想を尊ぶ態度は、トップダウンではなく、皆によるディスカッションの中からよりよいアイデアを発見しようとしたからで、ヨシザカはコルビュジエとは違い、最初から集団的な設計体制を好んだ。そしてカッコイイとかシャープさは眼中にない。 「山岳・雪氷・建築」は登山家であり、冒険家、探検家であったヨシザカの多面性に焦点を当てた展示を期待していたが、時間が足らなかったのか、山小屋や山岳建築に絞られていた。(だが、「黒沢池ヒュッテ」の1/3スケールのドーム模型は面白かった。足が雪に埋もれた写真しか知らなかったので、こんなに軽々と浮いてるとは思わなかった。) 「原始境から文明境へ」「あそびのすすめ」はさらに時間が足らなかったのか、ヨシザカのパタパタスケッチの展示が主で、サラッとしていた。パタパタの紹介にしても、もっと時間軸にそって前期・中期・後期に分けて丁寧に見ていけば、絵がどんどん大胆になり、スケールや味が出てきて、鉄斎のようになって行く様がよくわかったかもしれない。 「有形学へ」は、実際は「発見的方法」による都市や農村、漁村のフィールドワーク、地域計画の展示が主で、未完の大系である「有形学」をこの最後の小さなスペースで語り切るのは無理だなと感じた。 正直に言うと、建築家としてだけでなく、その他のヨシザカの多面性にも十分にスポットを当てて深く考察された展示、は今回もなされなかったと思う。 もちろん、それがとても困難な作業であることは、吉阪隆正集17巻(勁草書房)のジャンルの広さと深さにクラクラする弟子の一人である私自身がよく知っている。でもそれが初めてなされた時に、ヨシザカはダヴィンチのようにあらゆることに興味を持ち、それを探究しようとした、現代のルネサンス人であることがわかるはずだ。それを現美で見たかった、と思うのは私一人ではないだろう。 かずま Odyssey of Iska 150-0001 渋谷区神宮前2-6-6-704 #
by odyssey-of-iska5
| 2022-03-30 17:36
2021年 09月 21日
拾遺篇28.地表は果して球面だろうか ヨシザカの新しい本が出た。 と言っても、41年前に亡くなったヨシザカが新たに書き下すわけがなく、これは彼の死後、弟子達によってまとめられた全17巻の「吉阪隆正集」(勁草書房 1984〜86 絶版)の中から、2、4、5、7、9、10、11、13、16巻の一部を抜粋してまとめられた本で、百科事典の平凡社が提案する、科学と文学の双方を横断する新しい随筆シリーズ「STNDARD BOOKS」の一冊として編まれた。 そういう意味では6年ほど前に出版された「好きなことはやらずにはいられない」(建築技術 2015)と似ているが、「好きなことは‥」は絵やスケッチ、図解、写真が豊富で、言葉もキーワード的なものが多く、短時間に要領よくヨシザカのエッセンスをわかった気分にさせてくれる。 だが、「地表は果して‥」は少し理屈っぽい文章が並び、しかも40歳から63歳まで書かれた年代が異なるのでやや読みにくく、集中力がいる。 だが、読んで損はない。ヨシザカの真骨頂がいろんな所で散見できる。 まず最初に、「三つの建築家像」(1973 56歳)という文章がある。 第一は用への奉仕(体制に乗って、その維持に尽くす)、第二は筋への奉仕(真理に肉薄し、実を捨てて名をとる)、第三は愛への奉仕(ささやかな積み重ねで町全体を住み良いものにする)と3つ挙げ、「‥‥前二者のように、生み出すことに力を致すものが覇をとなえる価値のあり方から、あるものを育てることの方が大切だという価値に重点を切り換えなければならないのではないか」と言って、第三の愛への奉仕の大切さを説く。 ヨシザカらしい視点だ。 「環境工学とは何か」(1973 56歳)という短文では、自身の髭の話から始まり、毛髪や体毛の話に移り、防寒や防災の設備依存の話を経て、「‥‥環境への順応、それには二つのみちがあるのだ。一つは、己れ自身がこれに適応する訓練、今一つは、あまりに苛酷な時、それを緩和するための技術、この両者の均衡が求められるべきなのだ。今日では、すべてを後者のみで解決しようとする所に、巨大なる過ちを犯しているのではなかろうか」と、お題のバラ色的なニュアンスとは異なる警鐘を鳴らしている。 「不連続統一体の提案」(1957 40歳)はサンパウロ・ビエンナーレに参加する学生達と作品をつくっていた時の文章で、何度読んでも若々しい力に溢れている。 この時、ヨシザカはコルビュジェの言う「不思議の扉を開いた時の感激」に似た喜びを感じ、次のように熱く語っている。 「‥‥だからこれを逆にして、公共的なものが、各地に住んでいる人達をたずねて歩くようにしたら、住んでいる所の施設が固定せず、居ながらにして遠い所ともつながるのではないか。巡り来るものはいろいろな内容のものである。したがってある固定した建物では不具合である。その度に適した新しい場がつくられる。そんな場をつくる可能性だけを広場にしておけば、町の人達の心を結びつけるものはできる。そしてそれは同時に、また他の所に住む町の人達ともつながる。同じ相手と接し、同じ対象を見ているというつながりがあるのだから。」 「有形学へ」(1967 50歳)は有形学を構想した時の発起文だが、それが未完の永久運動になるであろうことは末尾に予見されている。 「‥‥特に創造ということになると、その字も示すように、今までなかったものをつくるので、もし有形学がつくり方を示してしまったら既にそれはつくられたものとなり、我々は更にそれを破壊してゆくことに創造の源泉があるのだから、有形学は絶対にいつまで経っても完成されることがないということになる。 これはとんでもない迷路に入りこんでしまったものだとは気がついているが、どこまで行けるか大変興味のある探検である。」 引用はこれくらいにしよう。 各人が好きな文章に出会ったら、図書館で「吉阪隆正集」を借りて読み進めることを勧める。 (私は個人的にはコルビュジェの所から帰ってきた後に赤裸々に書かれた「ル・コルビュジェ」(1954 37歳 この本には未収録)や、亡くなる少し前の「好きなことは‥」(1980 63歳 この本に収録)がストレートな言葉で語られていて、好きだ。) お彼岸の初日、天気が良かったので、多磨霊園のFとヨシザカの墓参りに行った。 ヨシザカの弟さんが今年3月初めに亡くなったことを知った。93歳だった。 今頃天国で久しぶりに兄弟の会話に花を咲かせていることだろう。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2021-09-21 19:08
2020年 05月 13日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編27. 山派の建築 海派の建築 吉阪研では毎年、夏は北アルプス、冬はスキーが恒例でずっと続いていた。 M2の夏に、ヨシザカとU研が設計した涸沢ヒュッテ「新館」を初めて見た。 (この建物は北穂、涸沢、穂高、前穂に囲まれた涸沢カールの扇の要の位置にあり、雪崩で2度流失した後、1953年に本館、55年に別館、63年に新館が建てられた。写真で新館は一番左側) ところが、遠くから見ると石積で囲まれてよくわからない。近くまで来て、やっと山小屋だとわかった。(雪崩や岩山の崩壊に対するディフェンスから来ている。 最近では屋根の上もデッキで覆われているようだ) 内に入ると窓が小さく、思っていた以上に暗い。天井もそれほど高くはなく、守られている感じだ。(ビバークしている感じという方がより近い) このことはその他の山小屋(黒沢池ヒュッテや山岳アルコー会ヒュッテ、ヒュッテアルプス、野沢温泉ロッジ、立山荘)でもほぼ同じで、というより、ヨシザカとU研が設計したすべての建物に通底している。(例えば、ヴィラ・クゥクゥや浦邸、自邸などの住宅、アテネ・フランセ、大学セミナー・ハウス本館、生駒山宇宙科学館、箱根国際観光センター案などなど) ヨシザカを始めとして、U研のメンバーのほとんどが山男で、普段から山や自然との付き合いが深かった。こうした点が建物の設計にも反映されているのだろう、窓や開口部は小さく、穴を穿った頑丈なものが多い。一見すると無骨だが、手や身体の触れる部分へのこだわりは強く、ディテールは凄い。 また、垂直水平の綺麗な箱のような建築は皆無で、どちらかというと変な形をした鈍なプロポーションの建物が多いが、自然に置くとそれらは妙に様になっている。 簡単に言えば、山派の建築だ。 それに比べ、ヨシザカの師でもあるコルビュジェの建物はスマートだ。 特に前半のインターナショナル・スタイルをつくっていく時代は、どれもが当時の流行のお手本のようで、スマートだ。 スイス学生会館を筆頭に、初期から、エスプリ・ヌーヴォ館、アメデエ・オザンファン邸、母の家、ペサックの集合住宅、ヴァイゼンホフ・ジードルンク、ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、クック邸、レ・テラス、サヴォワ邸・・・と、自らがつくった「新しい建築の5原則」に基づきながら、洗練と快楽の度合いの増していく様子がよくわかる。 旧来の伝統的で古典主義的なボザールと闘っていたコルビュジェにインスピレーションを与えたのは、船や車などの、実用的で機能的で無駄な飾りのない乗り物だ。 それをコルビュジェは「住宅は住むための機械である」と言った。 装飾にまみれたキャンバスをもう一度真っ白にして、そこに新しい絵を描くために、コルビュジェは直喩的な強い言葉で自身の目指す方向を示した。 (車や船の直喩的アナロジーは、シトロアン・ハウス('20'、22)やアジール・フロッタン('29)で結実する。パリの救世軍本部('29-'33)やマルセイユのユニテ('46-'52)は、私には船の比喩的アナロジーに思える) また、スイス山中のラ・ショー=ド=フォンで生まれ育ったにもかかわらず、コルビュジェは生涯、海を愛し、カプ・マルタンに休暇小屋('50)を設け、最期は地中海に抱かれながら亡くなった。海の変わらぬ水平線や透明性、明るさに、コルビュジェは強く惹きつけられたのだろう。 コルビュジェは(少なくとも前半は)海派の建築家だ。 だが、ヨシザカがコルビュジェのアトリエで働く1949-53年の頃には、コルビュジェは既に透明性から不透明で闇のある世界へ移行している。そして豊饒なるものが彼の建築の中へどんどん流れていく。その最たるものがロンシャン(’50-'55)だ。 コルビュジェの後半生は山派に向かって大きく舵を切った。 翻って、今日の建築の置かれている状況はどうなのだろう。 いつの間にか、経済性と機能性と明るさばかりで、豊饒なる闇や無骨で骨太な精神はどんどん失われていった。 その結果、海派の建築ばかりで、山派の建築は数えるしかない。 私は海と山と坂道の長崎で生まれ、小さい頃育った。 どちらか選べと言われれば、絶対、山派だ。 少なくとも「海」だけの建築は嫌だし、それに加担する気持ちはない。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2020-05-13 18:22
2019年 05月 03日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編26. 日常を準備の場とする ヨシザカは(一緒に歩いたことのある人なら皆知っているが、)超早足だ。 スタ、スタ、ではない。スタスタスタスタスタスタ・・・なのだ。 それで大学内や百人町との行き来をする。しかも会話をしながら。 初めて一緒に歩いた時は理由(わけ)がわからず、意地悪をされてるのかと思った。 だが、研究室に入って、ヨシザカの過密なスケジュールや日常生活を見ていて理由がわかった。それ以外に身体を鍛える時間はないからだ。 ヨシザカは毎年、北アルプスに行った。W大山岳部K2登山隊の話もあった。(亡くなった翌年にそれは達成され、彼の遺骨の一部はK2山頂付近に眠っている) 日常生活でできること全てを訓練の場として捉えていたからこそ、死ぬまで山に行けた。 ヨシザカはたとえ帰宅が遅くとも早朝に起き、毎朝執筆をした。(U研のコンペの手伝いをしていた時、何度もそうした光景に出くわした) だから常時睡眠不足で、研究室会議では毎回始まるとすぐに寝始めるが、佳境になるとガバッと起きて、「それは◯◯だからX Xだ」と秀抜な意見を吐いて、またバタンと寝る、というのがパターンだった。(だから、あれは絶対寝てなくて聴いてるんだ、というのが皆の定説だった) だが、本当に疲れて寝てしまったこともある。(この辺は志ん生と似ている) 毎朝早朝に起きて執筆するという、自分に課したルールをずっとストイックに守ったからこそ、あの膨大な著作が残った。 書くことと同様、描くことも大切にした。 「絵は文字の100倍喋る」と言って、エスキスは必ず文字ではなく、絵や図解で説明することを求めた。授業も自分の考えの説明は図解で行った。 日頃からパタパタ(横長に広がる、御朱印帳の細長いもの)を持ち歩き、暇があるとスケッチしていた。その数は膨大な量となり、絵の上手い下手を超えて、見る度に私にはヨシザカの分身のように思える。 ヨシザカは日常を未来への準備の場として捉えていた。 その遺伝子は弟子にも伝わり、私も毎日、仕事場への往復は早足で歩く。エレベーターの使用も数年前からやめ、8階までダッシュで上る。毎朝スタッフの筋トレに付き合い、40回腕立て伏せをする。休日の母親の施設への往復もバスは使わず、早足で歩く。そして毎日1時間本を読む。 こうしたことはヨシザカの日常から学んだ。 多分、死ぬまで続けるだろう。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2019-05-03 00:03
2018年 03月 13日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編25. 原寸で考えるある改修計画の実施設計をおこなっている。 山は越えて、今は設備と積算へ図面は回っている。 年度末の仕事はいつも大変で、スタッフや協力事務所に負担をかけないよう、できるだけ早く中身を固めようと思うのだが、何せ今回は私達が選ばれたのが1月半ばで、しかも映像との絡みが多く、ソフトのコンテンツを決めてから設計に入る必要があったので、毎日全力で走り続けているような感じだった。 まあ、好きで選んだ道だから仕方がない。 実施設計は詳細を考えながら詰めていくので、当然、原寸でエスキスすることになる。この原寸で考えるという作業が、今のCADで育った世代は意外とできない。CAD上では拡大縮小が自由にできるので、1/100も 1/1も差がないからだ。だが、実際、この差は歴然で、大きい。 原寸は本当の大きさだ。それ以上でも以下でもなく、自分の目で見て感じたことが現実と直結する。皮膚感覚で考える、と言ってもいい。 こうしたことは吉阪研の時にU研や象に出入りするうちに自然と身に付いた。 勤めた菊竹事務所でも同様の経験をしたので、私の中では確固たるものとなった。反対に原寸で検証しないうちはどこか不安が付きまとう。 U研や象のディテールは皆ぶっとくて個性的だが、それらは皆原寸で描かれている。特に手が触れる取っ手や手すり、ドアはそうだ。 それらをよく見ると、まっすぐに見えて、実は微妙にカーブしているものが多い。真っ直ぐな工業製品や木材を少しでも自然や人間に近づけようとする意志や執念を感じる。 今こうした一品物のデザインをするととても高いものになるが、U研が活躍した時代は物が無かったのでつくるしかなかった。だが、それを逆手にとって唯一無二のディテールを大竹十一さん達は開拓していった。 憧れと羨望を感じる。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2018-03-13 15:14
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