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2013年 01月 14日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 12.大学院の授業 どこの大学でも、大学の授業と比べ大学院の授業のコマ数はグッと少なくなる。 それだけ自由度が高いとも言え、自分に興味のあることがあればそれに熱中して時間を費やすことができる。だが、多くの人間はそうすることをせず、2年間をほぼ無難に過ごし、修了証書をもらって出て行く。 いわゆるモラトリアムだ。 時間の無駄で人生の無駄だ。 だから私は余程の熱意がない限り、大学院に行くことを勧めない。 それより早く社会に出て自分の力の無さに気づき、実践の中から多くのことを学んだ方が早いし身に付く。 大学院に行って価値があったという人間をほとんど知らない。 例外があるとすれば、それは私だ。 私は大学院の2年間でその後の生き方がほとんど決まってしまった。 大学4年間より遥かに濃密な時間を生きた。 ヨシザカが言うように、ただ学ぶのではなく実践に参加する中から多くのことを学んだ。 それは追々明らかにして行くとして、実際の授業でも不思議なレッスンを受けた。 M1の前期にヨシザカの授業が10回程あった。 都市計画概論だったか何だったか、講座の名前は憶えていない。その代わり、それと中味は違っていたことはよく憶えている。 毎回、黒板に不思議な図形が描かれた。 例えば、こんな感じだ。 社会の仕組みや個人の関係について述べながらこんな図形を黒板に描いて行く。 次の回の授業でも同じようなことを述べながら、だが違った図形を黒板に描いて行く。 次の次の回の授業でも同じようなことを述べながら、またまた違った図形を描いて行く。 話の内容は今となっては正確には思い出せないが、毎回違った図形を描いて行くヨシザカの姿だけは鮮明に憶えている。 ヨシザカはいつも「絵を描きなさい。絵は文字の100倍喋る」と言っていたが、それを実践していた。自分の世界観を獲得するために毎回黒板上で格闘していた。 (ただ、図形自体は何度か描くうちに既に出来上がっていたものだと思う。本人はそれを追確認しながら描いていたのだと思う) だが、こうした姿を傍観者的に眺める学生達が気に食わなかったのだろう。 ある時、私達に向かって 「みなさんが後の方の席に座るのは自由だが、前の方に来れないというのは私の力に負けているからだ。もっと私と戦おう、同じ土俵の上で考えてみよう、と思うなら前の方の席に来て聴きなさい」と言った。 だが、私達は前の方へは行かなかった。 確かにヨシザカのプレッシャーに負けていた。 この授業の最後にテストは無かった。 代わりに誰か一人を選んでその人物の伝記を書けというレポートが出た。 私は迷わずピカソについて書いた。 正確には、1937年のピカソに焦点を合わせながら彼の芸術について書いた。 なぜなら、最初に私がピカソを知り、虜になった作品は、「ゲルニカ」(1937)の習作の一つをもとに描かれた「泣く女」で、それが描かれた1937年のテンションの高さに昔から強く惹かれていたからだ。 そして(たとえ技巧的には多くの豹変を繰り返しても)ピカソの生涯をずっと貫いていたのは、強い表現主義の精神だったと論じた。 一気呵成に一晩で書いた、ピカソが絵を描く時のように。 そのレポートを読んでヨシザカは「おもしろい」と言った。 私はとてもうれしかった。 ヨシザカは都市計画なんて血の通っていない名前の学問よりも、それを構成している個々の人間の方が好きなんだ、その人間の生き様や道程の方がずっと好きなんだ、と確信した。 かずま
by odyssey-of-iska5
| 2013-01-14 20:31
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