フォロー中のブログ
検索
以前の記事
2018年 03月 2017年 11月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 04月 2017年 01月 2016年 07月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 05月 2013年 03月 2013年 01月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 06月 2012年 01月 その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2013年 09月 16日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 17.研究室の仲間達 吉阪研はW大の建築の研究室では一番大所帯だった。 M1、M2が5人ずついて、その上にD1、D2、D3、さらにその上にODがいた。 その他にも研究生や留学生、W大に他の国から来ている先生もいて、全員が研究室会議に揃うと入り切らないのだが、どういうわけだかそうはならなかった。(サボったわけではなく、いつも何人かは地方や外国に飛んでいた) 私は生意気だったので、逆に先輩達からかわいがられた。 とりわけ歳が同じかほとんど変わらないM2とは仲が良かった。(彼らのイラン国立図書館国際コンペを卒計間際まで手伝っていたので、同士のようだった) 中でもH君とは(彼の妹が高校の後輩なので)仲が良かった。 H君の修論を手伝いに彼の家に行ったが、修論の話より音楽の話ばかりしていた。 特にクラプトンのクリーム時代やそれ以降の話が多く、「ベルボトム・ブルース」を彼がギターで弾いたりして、半ば遊んでいるようだった。 H君の修論は日時計の考察と設計だった。エスキスを見ると、コルビュジェのフィルミニヴェールの教会のように断面が台形の形をした展望台だった。が、これだと建物の影が邪魔して上手く行かない。 「逆にしたらどうだろう?」と言って、そばにあった割箸と紙とテープで2、3分で模型を作って見せた。すると、「これだ!」と言って、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を再び彼がギターで弾き始めた。 (このエスキス模型は気に入ったので、私が貰い受け、今でも事務所にある) その後もH君とは兄弟のような付き合いが続いている。 30の時に私がヨーロッパを放浪したのもローマからの彼の葉書が切っ掛けだった。 (その時の写真(at Roma 1984.2)を先日彼が「整理してたら出て来た」と言って送ってくれた。とても懐かしかった) ![]() Mさんは博学多識で、特に雑学系が強く、私は日活ロマンポルノの変遷や日本プロレス史などを教わった。 Mさんの修論の手伝いをした時は(私が風邪で高熱を出したので)ほとんど役立たずだった。なのにとても歓待してくれた。 「みぞぶちが来たんだから、これだな」と言ってMさんの双子のお兄さんが真空管を出してきて、ステレオでJazzをかけてくれた。真空管が温まるまで待つのだが、その間に珈琲が出てきて、これまた遊びに来たような感じになった。 (マイルスの「Four & more」を初めて聴き、トニー・ウィリアムスのドラムの凄さを知ったのもこの時である) もう一人のMさんとも仲がよかった。よく一緒に酒を飲んで建築の話をしたが、いつもカウンターパンチを喰らうような感じで刺激的だった。 (今年の春に15年ぶりに会ったが、いきなり「俺はお前が嫌いだ」とアッパーカットを喰らった。「なんで?」と訊いたら「昔、ヨシザカに『お前はみぞぶちに負けている』と言われた。だから俺はお前が嫌いなんだ」と彼らしい言い方で答えた。 多分、私とMさんはとてもやんちゃでいつも研究室を引っかき回していたので、もし本当にそう言ったのなら、ヨシザカは「もっとやれ!もっとやれ!」とMさんにけしかけたのだろう) 後輩とも仲が良かった。 特に喜多方出身のY君とはウマがあい、よく飲み、よく話をし、夜明かしをした。 彼の目白の下宿で朝まで飲んだ時は、クラプトンとジェフ・ベックとジミー・ペイジの弾き方の違いを彼がエレキギターで実演してくれた。 朝になって別れる時、「いいものを見せてあげましょう」と言って池袋まで送ってくれた。「これです」と言って途中で立ち止まった。 フランク・ロイド・ライトの自由学園の「明日館」だった。 良く手入れされた芝生の中にシンメトリーに配置されたそれは、周囲とは別世界の、まるで天国のような建物で、目から鱗と言うか、突然酒から醒めて、思わず見入ってしまった。 その後何度も「明日館」には行ったが、あの時の鮮烈な出会いは忘れられない。 他の大学から来たH君とも仲が良かった。 H君は議論好きで探究心が強く、ナイーブで芸術家肌で、何にでも興味を示した。やはりウマがあい、よく建築やアート、音楽、映像の話をした。 このことが二人の将来に少なからず影響するとは、その時は思いもしなかった。 (H君は今や日本を代表するゲームソフト会社のトップだが、彼が昔ヘッドハンティングにあって悩んでいた頃、絶対向いてるから行った方がいいと言ったのは私である。 反対に、生涯の友人でありクライアントでもあるマニラのMさんに「あなたの夢を叶えてくれるのはこの人です」と言って私を紹介してくれたのは彼である) 同期の仲間とはもちろん仲はよかったが、とりわけAとは不思議な仲だった。 Aは建築家の名前や建築のことを何も知らなかった。(「フランク・ロイド・ライトの名前は知っている」と言ったが、それもサイモンとガーファンクルの曲で覚えたのだ) が、映画や音楽の話になると俄然違い、博学多識、饒舌雄弁になって、次から次に話が始まり止まらなかった。 Aは実はアマチュア映画界では知られた存在の映画監督で、大学四年間はほとんど映画作りに時間を費やし、その合間に建築の課題を出していた。吉阪研には推薦で入ったが、試験では多分無理だったろう。(推薦で申し込みを出したら、ある晩、蒲田の自主上映会の会場に突然ヨシザカがやって来て彼の映画を観、ハンコンを押してくれたのだそうだ) 彼のおかげで私の(映画と音楽における)ミッシングリンクはほとんど解けてつながることができた。 吉阪研は野球は弱かったが、よく試合をした。 試合前の研究室会議は必ず野球の練習に代わり、大学のそばの空き地でみんなでバッティングとノックの守備練習をした。そしてその後「葉隠」に行き、焼き鳥を食べながら飲み騒ぎ、ワイワイガヤガヤ議論するのが常だった。 私は青春を謳歌していた。 大学院に入った当初、ヨシザカはハーバードの客員教授でいなかった。 6月に戻って来た時、最初に挨拶をしたら、 「これから2年間よい思い出をたくさん作ってください」と言われた。 (冷たいな〜!)と思った。 2年間などと言わず、俺はこれからずっと一緒に冒険の旅をして、楽しい思い出をたくさん作って行こうと思っていたのに・・・ だが、結果的にはそうなった。 ヨシザカがその時自分の病を予知していたとは思えない。 この言葉は、人生は一期一会なのだからいつでも悔いの無いよう、思いっきりやりなさいという激励だったのだ。そして実際、ヨシザカはそのように生きた。 同じようなことは言葉を変えて何度か言われた。おかげで私はいつも飛ぶことができた。 かずま ■
[PR]
by odyssey-of-iska5
| 2013-09-16 20:44
|
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||