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2016年 01月 31日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇16.ブリコラージュ・デザイン・方法・組織 カサベラ・ジャパン監修者の親友のK君から「みなでつくる方法ー吉阪隆正+U研究室の建築」(@国立近現代建築資料館 会期は3/13(日)まで)の展覧会レポートを書けと年末言われた。 軽い気持ちで引き受け、どんな感じで書くのか過去のレポートを送ってもらい読んだ。 ギョ!である。 難しい漢字やカタカナがたくさんあって、読んでるうちに頭が痛くなった。 私は長らく論文のようなものは書いていない。というか、卒論と修論を書いて、この手の文章は私には無理だなと悟った。そして金輪際こういう文章とは無縁な、ひらがなの世界で生きようと心に決めた。 なのに、さすがはカサベラの血筋を引く雑誌だけあって、ジャパンの方も論客の文章ばかりだ。 後悔したが、引き受けたものはしょうがない。正月中、頭を抱えながら書いた。 * * *
国立近現代建築資料館で開催中の「みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築」展を観た。(会期は2015年12月3日(木)から2016年3月13日(日)まで。) 私は1980年3月に早稲田の大学院の吉阪研を修了し、その年の12月に吉阪は亡くなったので、大学だけでなく山や冬のスキー、アトリエのU研できちんと薫陶を受けた最後の学生ということになる。また、夜間の専門学校(現芸術学校)のTAを2年間したので、その校長でもあった吉阪と話をする機会は他の人より多かった。(もちろん、OB、OGとは比べものにならないが。) 吉阪が亡くなって以降の展覧会やシンポジウムはこれまでほとんど観聴きし、その多くを知っているつもりでいたが、今回の展覧会も初見の原図や新たな発見があり、おもしろかった。 会場は中央の《大学セミナー・ハウス》の巨大な油土の模型を取り囲むように、昨年U研から国立近現代建築資料館に寄贈された約8,500点の建築設計資料の中から選ばれたトレペの原図やスケッチがジャンル別年代別に並んでいる。 そして、入ってすぐの所に植田実さんの「住居」という文章のパネルがある。少し長いが引用する。 「吉阪隆正の自邸は、建築家がその先の時代を見据えた「人工土地」のコンセプトによっている、という以上に、コンクリートの土台をつくったところで金融公庫からの金が底をつき、「部屋のない土地」を1年間眺め暮らしたバラック住人の現実でできている。 そして鉄筋コンクリートのフレームに充填されたブロック、3枚重ねの煉瓦、腎臓形の窓、漢詩を刻んだパネル、窓でも壁でもない種々の開口部などは、どこかから手続きなしで見知らぬ境遇に移植されたテクスチャーである。(略) 《吉阪自邸》におけるテクスチャーは材質の特異性ではなく、時代の流れから離れた、自ら材料や部品を収集してつくるブリコラージュの、解読しにくい謎の姿勢である。それは自邸に前後するいくつかの初期住宅から《浦邸》《ヴィラ・クゥクゥ》、晩年の住宅にまで等しく表れ、謎は衰えることがなかった。それを吉阪の少年時代の特別な生活環境、戦後初期のル・コルビュジェのアトリエでの経験、本格的なアルピニストであること、あるいはいっそ吉阪生来の個性と簡単に説明すればなおさらに、小さな住居のなかの大きな世界は遠去かる。(略)」 吉阪+U研の住宅をブリコラージュとは言い得て妙で、さすが植田実は慧眼の持ち主だと改めて感心する。 彼らが活躍する50年代から70年代はCadやパソコンが登場する以前で、すべてが手仕事として成立した。当然ながらその思考や作業は圧倒的な身体性を備えている。特に吉阪+U研は山岳部出身者が多く、体育会系というか、身体を使って考え、それを原寸に起こし、模型で確かめ、試行錯誤を繰り返しながら設計を進めていった。 また、吉阪を含め、異なる個性の集団(寄せ集まり)で、その個性をそれぞれが出し合うことで新しいものを創り出していった。 植田さんの文章の後半には、実は身体性にまつわる指摘もあるが、ブリコラージュという概念には元から身体性も内包されているので、ここではそれも含め、識者によって提示された、吉阪+U研とブリコラージュの関係をさらに深く考えてみたい。 植田さんは住宅のデザインを指してブリコラージュと言ったが、《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》《海星学園》《呉羽中学校》《日仏会館》《アテネ・フランセ》など、他のすべての建物のデザインでもそれは当てはまる。 一筋縄ではいかないデザイン(植田さんの言う「解読しにくい謎」)のために、吉阪+U研のデザイン評はとかく表面的な印象批評になり勝ちで、「毛深い建築」とか、吉阪の来歴から、粗野で洗練さの欠けたコルビュジェのように語られることが多い。 確かに建物の形は純粋な立方体や直方体ではなく、どこか歪な形をしている。しかもそれを楽しんでる風な所があり、さらにそれを強調する癖がある。 内外にてんでにころがる個々のデザインも皆個性的で、へんてこりんで、だがきちんと見ると魅力的だ。 なぜ彼らはこんなことをするのだろう? U研を取りまとめていた大竹十一さんに私が以前、菊竹自邸の《スカイハウス》('58)と《浦邸》('56)は似ているという話をした時、「《スカイハウス》は1でできているが、《浦邸》は2でできている。1は単純過ぎておもしろくないから、僕らはやらない」とあっさり言われた。その時の話の文脈からすると、1とか2は建物の数と同時に、内部の生活の成り立ちと交わり方を指している。 つまり、吉阪+U研が目指したものは、生活を単純化してデザインを洗練されたものにすることではなく、むしろそれとは逆の、そこでおこなわれる種々の生活を受け入れてそのかたちを探し出すこと、そして(ユーモアを交えながら)それをさらに個性化することだった。その結果がブリコラージュのデザインだ。 《吉阪自邸》にしても、コルビュジェの事務所にいた頃の吉阪の最初の案はもっとスマートだ。(今回の展覧会場でそれは見られる。) それが資金難で「部屋のない土地」を1年間眺め暮らし、バラック住人のいろいろな生活への思いや視点が加わることでブリコラージュのデザインになった。建築は早くつくるだけが能ではない。 また、設計にかける時間と現場に入ってからの時間はほぼ同じだったと十一さんは言った。もっと良くならないか、もっと良くならないかと粘りながら図面を描き続け、変更を加えた。その結果、ブリコラージュのデザインはさらに拡大した。 では、どのような方法でそれをデザインしたのだろう。 これも十一さんから聞いた話だが、U研ではあらゆる建物のデザインをみんなでディスカッションしながら決めていた。しかも、年齢、経歴は一切関係なく、発言は平等だった。けしてコルビュジェのようなトップダウンのやり方ではなく、集団による設計だった。(実際、大学教授でもあり、興味が多岐に渡って国内外を常に飛び回っていた吉阪が、すべてに細かな指示をすることなど不可能だったろう。) ディスカッションの場では一つだけルールがあり、出された案、アイデアに対しては代案を出して意見を言い、批判だけするのはやめる、というものだった。吉阪といえど、そのピースの一つだった。(吉阪研での経験から、それはきっと巨大なマグマのようにいつも議論をひっくり返して原点に立ち戻らせる、とてつもなく面倒くさい、だが大事なピースだったろう。) つまり、設計方法もブリコラージュだった。 ディスカッションで決まったことを図面化し、現場でさらに工夫して監理するのは十一さんと他のメンバーの仕事だが、それを外部へ発信するのは、魅力的な言葉を生み出す天才でもある吉阪の仕事だった。 この展覧会のタイトルである「みなでつくる方法」はブリコラージュと言い換えることもできる。 吉阪はコルビュジェの事務所から戻った1953年早稲田大学構内に吉阪研究室を設立し、設計活動を始める。そして翌54年、武基雄研究室にいた十一さんを《浦邸》の設計に誘い、本格的にスタートさせる。 「・・・(大竹が)吉阪から声をかけられたのはそんな時である。その後、文京区役所に勤めながら吉阪自邸の監理を手伝っていた城内哲彦、大学院在学中の滝沢健児、そして、自邸を手伝いながら卒論をまとめていた学部三年生の松崎義徳。それまでバラバラに吉阪の仕事を手伝っていた三人が次々と浦邸の設計に参加した。まったく似たところの無い五人のメンバーであった。」(「吉阪隆正の方法 浦邸1956」斎藤祐子) つまり、吉阪+U研という組織の始まりもブリコラージュだった。 当時のメンバーには岡村昇、山口堅三、渡邊洋治もいる。59年に鈴木恂が加わり、61年には大学構内を離れて百人町の自邸敷地内に移り、64年に名称をU研究室に改称する。この年を挟んで、前年に富田玲子、同年に大竹康市、翌年に樋口裕康の、後に象設計集団をつくる3人が加わる。そして数々の名作、話題作をつくっていく。 私は吉阪研時代、U研のコンペを手伝いによく行ったが、コンペだったせいか、U研には時間に始まりが無い感じで、いつも皆三々五々集まり、夜遅くまで作業するのだが、帰るのも皆バラバラだった。 もちろん、吉阪が現れるのはもっと不規則で、夜中だったり、早朝だったりした。 超多忙で、国内外へ出かけてばかりいた吉阪にとって、大竹十一という柔軟な生涯に渡る名パートナーがいなければ、その設計活動は成り立たなかったろう。 吉阪は1957年のブラジル・サンパウロ・ビエンナーレ・コンペの作品を学生と共に徹夜で仕上げている最中に、デザイン論や方法論、組織論を束ね合せて「不連続統一体」という魅力的な言葉を生み出すが、これも大きな意味で、ブリコラージュと捉えることができる。 吉阪+U研はデザイン・方法・組織において常にブリコラージュを実践し、展開した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 会場を観て回るうちにある図面に目が留まった。《生駒山宇宙科学館》('68)の立面図だ。その次の壁に《箱根国際観光センター》のコンペ案('70)の立面図がある。 この展示を観るまでは、箱根はコルビュジェのブラジリアのフランス大使館の事務棟の丸いプランから来ているのだろうとばかり思っていたが、生駒山→箱根とスムーズにつながっていることを初めて知った。そして生駒山が改めて凄い建物だと感じた。 これだから、展覧会は行って観なければわからない。 ぜひ観て、その場で感じ考えることを勧めたい。 (吉阪の言葉に直接触れたい方は、昨年秋に出版された「好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話」を勧める。) かずま
by odyssey-of-iska5
| 2016-01-31 13:55
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