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2017年 06月 29日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編22. 池原先生のこと 一昨日、久しぶりに大隈講堂に行った。 5月に亡くなった池原義郎先生を偲ぶ会があったからだ。 式が始まる直前に着くと、正面のスクリーンに池原先生の語る姿が映されていた。途端に40年以上前に戻ったような、懐かしい気持ちになった。 私が入学した当時のW大の教授は、意匠系は意匠が池原、穂積、安勝さん、都市計画はヨシザカ、武、戸沼さん、歴史は保忠さんで、今から思えば皆とても個性的でおもしろかった。だから、学生は自分の好きな先生を選んで、その研究室で卒論と卒計を取った。(当時、W大は両方取らなければならなかった) 池原先生で忘れられないのは、修士の時に受けた意匠の授業だ。 所沢聖地霊園や勝浦の住宅など、毎回自分で設計した図面の原図のスライドを映しながら、学生の方は見ずにただひたすら、この時どのようなことを考え、どのように形にして行ったかだけを語り続けた。学生にわかりやすく説明しようなどという気持ちはこれっぽっちもなかった。 それは初めて受けたプロの授業で、緊張感があった。 毎回真剣に聞いた。そしてわかった。池原流とは、道行きに沿ってひたすら気持ちをデザインしていく作法だということを。 私が大学で初めて建築に目覚めたのは、2年の後半の住宅の課題だった。 (それまでは、四角四面な授業に付いて行けず、文学部に聴講に行ったり、ラグビーの練習と詩の本を読むことに明け暮れていた) 矩計まで要求する厳しい課題で、夢中になってやり、初めて建築の面白さを知った。その時の私のグループの担当が池原先生だった。 池原先生は毎回出欠を取らず、持って来た人のエスキスを見て言葉少なに批評するとサッと消えた。だが、その言葉はいつも的確で、心に残った。 私は一度もエスキスを見せなかった。見せないどころか、提出も間に合わずBehindした。だが、評価はA+→Aの一段階落ちだった。そして「この人はどこか菊竹さんに似ている」と言われた。 この言葉には憮然とした。私の初めて設計した住宅は畳が空中に浮いてるような家で、1階は白砂の庭とそれを観るための縁があるだけだった。 確かに今から見ると菊竹さんに似てるかもしれないが、当時は、みんなが持ってくる「A+U」から借りて来た外国の家のようにだけはしたくないという、ただただ反抗心からだけでつくった作品で、それを誰かに似ていると言われるのは承服し難かった。しかし、それから4年半後、私は菊竹事務所に行くのだから、池原先生は何かを見抜いていたのかもしれない。 忘れられない言葉は他にもある。卒論や卒計の研究室を選ぶ時に言われた、 「自分を大切にしてくれる先生の所へ行きなさい」という言葉だ。 これを聞いた時は、なんて打算的で利己的な言葉なんだろうと思った。 しかし、よく考えてみると真理のように思えた。 自分がどんなに好きな先生の所へ行っても、自分の目指す方向と先生の目指す方向が違っていれば、良い結果は得られない。しかし自分を大切に思ってくれる先生の所へ行けば、その先生の大切にしていることも純粋に学べて、さらに良い方向へ行くことができるだろう。 だから私はヨシザカの所へ行った。 この他にも、アイデアコンペで佳作に入った時の審査員の一人が池原先生だったとか、幾つかの思い出はあるが、池原研のメンバーのように濃いお付き合いをしたわけではない。 しかし、クールでダンディーな中に、いつも建築と真剣に向かい合っていた姿は、昨日のことのように今でも深く目に焼き付いている。 かずま
by odyssey-of-iska5
| 2017-06-29 21:36
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