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2017年 04月 29日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇21. 名護市庁舎設計競技の趣旨 先月まで奄美で「子育て・保健・福祉 複合施設」の基本構想・基本計画の仕事をしていた。 私は元々文章を書くのが苦手で、力むとすぐ言い過ぎてしまい、それを担当のYさんにやんわり指摘され、直すの繰り返しをしながらなんとかゴールにたどり着いた。 この報告書作成の段階で、常に私の頭の中にあり、離れなかった文章がある。 沖縄で1978-79年におこなわれた、名護市庁舎コンペの要項の最初に出てくる「設計競技の趣旨」である。それはこんな言葉で始まる。 「[目的と意義] 本競技の目的は、次の通りである。 すなわち、沖縄の地域特性を体現し、かつ要求される諸機能を果たすことが出来るとともに、市のシンボルとして良く市民に愛される市庁舎を建設するための基礎となる案、および敷地全体計画のすぐれた構想案を求めることにある。 また、本競技を公開にすることの意義は、「沖縄における建築とは何か」、「市庁舎はどうあるべきか」という問いかけに対して、それを形として表現し、実体化しうる建築家とその案を広く求めることにある。従って、すでに十分な実績を残している建築家はもとより、これから頭角を現すであろう気鋭の建築家で、地域の建築について志を同じくする方々の積極的な提案を期待するものである。 [沖縄の地域特性と市庁舎建築] 沖縄は亜熱帯に属し、多くの島々と周辺海域によって成り立ち、日本でも得意な自然環境に置かれている地域である。 古来、人々はこの自然に生き、人と自然、人と人との長い関わりの中から独特の風土が形成され、地域の個性的な感性と建築様式が生まれてきた。 しかし、現在の沖縄の建築は、このような歴史過程の結果として存在しているだろうか。建築の型、合理性、美しさは受け継がれているだろうか。 ことは建築のみに尽きるのではない。 機械技術の革新を背景とした近年の産業主義は、速やかな伝達手段を媒介として、著しく社会変容をもたらし、風土はすでに収奪の対象となるかあるいは歴史遺産として保護されるべきものとなった。地域文化が破壊していくのも、理由のないことではない。 このような状況にあって、主催者が市庁舎を建設するにあたってまず求めることは、沖縄の得意な自然条件とその風土を再考し、その上に立って沖縄を表現しうる建築家の構想力である。 市庁舎の建築にあたって、風土が問題にされる背景には、地域が自らの文化を見すえ、それを中央文化との関係のなかで明確に位置づけてこなかったと言う問題があろう。 地域が中央に対決する視点を欠き、行政が国の末端機構としてのみ機能するような状況にあっては、地域はその自立と自治を喪失し、文化もまた中央との格差のみで価値判断がなされることになるだろう。 しかし、地域に生きる市民は、すでにこのようなあり方に訣別を告げるべきだと考えている。従って、主催者の期待している新しい市庁舎は、地域の人々が自ら確認し、かつ自らを主張していくための活動の拠点となり、地域の自立と自治を支える拠点としての庁舎である。 主催者は、今回の競技において、沖縄の風土を確実に把え返し、地域の自治を建築のなかに表現し、外に向かって「沖縄」を表明しうる建築をなしうる建築家とその案を求めるものである。」 私はこの文章を大学院のM1の時に読み、いたく感動した。 それまで役所の人間が書いた文章でこんなに熱く心を動かされる文章はなかった。(当時、名護市役所にいた原昭夫さんが書いたことは後になって知った) 建築家が設計をしていく上で依って立つ根拠は3つある。 一つは場の固有性(風土、文化、敷地等)、もう一つは設計条件(クライアントの要求内容、住民の意見、スケジュール、金額等)、もう一つは建築家本人(経験、論理、感性等を通して場と要件を統合し、形や表現に還元していく媒体)だ。 このうち、場の固有性は絶対的なものだが、近年のコンペやプロポでは、場の必然性が感じられない、どこにでもあるものが建つことは多い。 だが、これだけ明快に沖縄の風土や地域の自治と向き合うことを最初に、しかも高らかに言われると、当然ながら建築家はそれと対峙せざるを得ず、かつ燃える。 かくして全国から300以上の案が集まり、2段階の審査を経て、Team Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)が勝った。 原さんは大学に入った当初は農学部で、それから工学部都市工学科に代わった変わり者で、最初は都庁に勤めたが、上司に楯突いたら小笠原の担当者に代えられ、その頃ヨシザカの考えに共鳴し、出入りするようになった(と以前、本人から聞いた。) 確かに吉阪研はW大では研究室は都市計画に分類されるが、やってることは農村や漁村などの典型的なリージョナリズム(地域主義)の研究だ。都市を研究するにしても木賃アパートや都市の隙間だったり、私のようにバラックだったり、普通でいう華々しい都市計画とは真逆だ。 こうした、上から降りてくる都市計画ではなく、地べたを這いずり回りながら下から草の根的に上がっていく考え方に原さんは共鳴したのだろう。 それは名護市役所を経て、世田谷区の都市デザイン室長になってから、より鮮明になる。 小さな区民センターや公衆トイレ、バス停、駅の外観のコンペなどを立て続けに仕掛け、シンポジウムやワークショップで地域の住民を巻き込みながら、まちづくり、まち育てを草の根的に積極的に展開していった。(トイレや駅のコンペに選ばれたおかげで私もその輪の中に加わり、原さんから多くの教えを受けた) 都市デザイン室を最初に始めたのは横浜市で、世田谷区はその後発にあたる。どちらも市長や区長の直轄で、縦割り行政に風穴を開けてつながりを良くし、早期にまちづくりをおこなうために設けられた。だが、その手法と目的は大きく異なる。 横浜市は人口300万を超える大都市で、その10倍以上の観光客が訪れる一大観光都市だ。したがって十分な資金を使って都市のアミューズメント化を図り、まちを華やかに整備する。 一方、世田谷区は23区最大の人口を誇る(それでも横浜市の1/4程度の)典型的な住宅街で、多くの予算は生活の維持向上とそれに関連する部分に使われる。当然、派手なものは少ない。(ただ、世田谷美術館は区レベルを超え、都や国のレベルの施設だ。) 同じ名前の部署でも目指す方向と内容は大きく異なる。こういうことに対し、原さんは極めて自覚的で戦略的だった。小さな闘いを仕掛けるゲリラ戦に近い手法と、誰にでもわかる言葉やテキストで住民を巻き込み、住民自体をまちづくりの主体に育てて行こうとした。外部からも柔軟に知恵をもらい、開かれたやり方でまちづくり、まち育てを実践していった。 だが、バブルが弾け、区の収入の縮小と共に外部のソフトの切り捨てから始まり、やがて都市デザイン室も都市整備部の単なる一部署に格下げとなり、活動を大幅に縮小せざるを得なくなる。やがて原さんも世田谷区役所を離れる。 私は今でも時々、原さんが都市デザイン室長だった頃に出した本やその後に多くの人とまちづくりについてまとめた本を手にすることがある。 その度に背中を後押しされるような気がする。 かずま
by odyssey-of-iska5
| 2017-04-29 17:51
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