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2013年 05月 22日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 16.シンパシー 研究室会議や研究室での雑談でよく先輩達の口から私の知らない人の名前が挙がった。 外部の人だが、まるで研究室のメンバーかOBのようにみんなが話すので、シンパシーを自然と感じるようになった。 その中に原昭夫さんの名前もあった。 原さんは東大の都市工学科の出身で、最初は都庁に勤めたが、お役所仕事のやり方に疑問を感じ、楯突いたら小笠原諸島の担当者に左遷され、その頃ヨシザカの考えに共鳴して接点ができた(と後に本人が直接私に語ってくれた)。 私が原さんを知った頃には既に沖縄の名護市役所に移って、自分の考えるまちづくりを実践し始めていた。名護市庁舎コンペもその一つで、だから要項の名文は原さんの手によるものだ。 原さんに初めて会ったのは象がコンペに勝って市庁舎が完成した後で、今帰人村の煙草の乾燥小屋を自分達の別荘に自力建設で変えていた時に市庁舎を見学に行き、その場でいろいろ話をした。 (その後、原さんは世田谷区役所に移って都市デザイン室長として住民参加型のまちづくりを仕掛け、多くのまちづくりコンペをおこなった。世田谷公衆トイレと喜多見駅のコンペはたまたま私が勝ったので、再び邂逅することとなった。不思議な縁である) 東洋大の内田雄造先生の名前もよく出てきた。 東洋大に一人変わったおもしろい奴がいる。そいつは東大の安田講堂事件の時に内に立て籠り、機動隊にしょっぴかれて留置所送りになったが、その後も権威に屈することなく、上から目線ではないまちづくりや被差別部落の問題に関わり、いつも戦っている。 そう、研究室の先輩達が話をして一目置いていたからだ。他大学の人のことなのによく知ってるな〜と思うと同時に親近感が湧いた。 (その後、私はひょんなことから東洋大で教えることになり、その人に会った。研究室で初めて聞いた時にはまさかそうなるとは思ってもいなかった。さらに、雄造先生は私の高校の先輩であることがわかり、よく話をするようになった。これまた不思議な縁である) 三宅理一さんの話も出た。 当時、三宅さんはフランス政府の給費留学でパリのソルボンヌ大学に行き、エコール・デ・ボザールで建築の歴史を研究しながら幅広い視点で興味深いレポートを「新建築」に寄せていた。おかげで私は「新建築」をそのページが出ている末尾から読むようになった。 (このレポートはその後加筆され「愛の建築譚」という本になった) ヨシザカは給費留学の審査をしたので、三宅さんのことを気にかけていた。 ある時、研究室会議で「三宅君はもう少しやわらかくなると凄い人物になるんだがな〜」とポロッと言った。 私はいつも読んでいたレポートをさらに興味を持って読むようになった。 (三宅さんはその後帰国し、芝工大の先生となって歴史家の枠組みを超えた活動と活躍をおこなった) ある時、電話が掛かって来て、「編集している『都市と建築コンペティション 』の最終刊に大阪平和資料館コンペの案を載せたいので、資料を見せてもらえますか?」と言った。 2つ返事でOKし、渋谷の喫茶店で会った。模型写真や図面を持って行ったが、それには目もくれず、私が提出間際に10分くらいで描いたパースを指差し、「これがいいですね」と言った。その選択眼の鋭さと本質を見抜く力に参ってしまった。 その後も三宅さんの文章を見かけるといつも気をつけて読んでいる。 刺激的でいつも私を挑発してくれる。 ルシアン・クロールの話も何度か出た。 私が大学4年の時に「GA HOUSES 3」(編集長は植田実)でルシアンの設計した「ルーヴァン・カトリック大学医学部学生寮」が初めて日本で紹介されたが、衝撃的だった。 まるで工事現場の途中のような、だが、自由で生き生きしていて、とても有機的だった。 研究室のS先輩もこれにイカレていつも熱っぽく語っていた。 私はいつかこの建物を実際に見たいと思っていた。そしてそれは30の時に実現した。 ヨーロッパ放浪の旅の途中でブリュッセルに立ち寄った。(予定より遥かに遅れていた) 地下鉄で中心から40分程の郊外にそれはあった。 駅もルシアンの設計で、ガウディのように有機的だった。 外に出ると目の前に学生寮が広がっていた。夢のような気分だった。 次の日、ルシアンの事務所に行った。(手紙を出しておいた) 「いつ来るのかと楽しみにしていたよ」と大きな手で握手しながら言った。 こうしてルシアンとの交流が始まった。 彼が初めて来日した時('87)、東京滞在中4日間同行した。 八王子の大学セミナーハウスに連れて行ったら、えらく気に入り、結局スケジュールを変更して半日をそこで過ごした。 そして最後に(親指と人差し指を目の前で狭めながら)こう言った。 「ヨシザカはヨーロッパではこれっぽっちしか知られていないがとても重要な建築家だ。 私は戻ったら必ず彼のことをみんなに伝えよう」 そして次の日ホテルに迎えに行ったら、午前中の予定をキャンセルして、「これから講義をしてくれ」と言う。 結局、ヨシザカとU研、象設計集団、日本の現代建築史、今和次郎やコルビュジェとの関係について拙い英語で2時間程話をする羽目になった。 時々ルシアンは質問をし、それらすべてを几帳面にメモした。 その夜、日本の建築家が50人程集まり、彼を歓迎する会があった。 冒頭でルシアンはこう言った。 「私が日本に来る切っ掛けを作ってくれたのはヨシザカの弟子達との交流だ。 今から7年前、私はヨシザカとヨーロッパで会う約束をしていた。 だが、彼は病気でその年の終わりに亡くなり、それは結局叶わなかった。 私はとても悲しかったが・・・C'est la vie(それが人生だ)」 それから2年後、ベルギーでEuropalia Japanという日本の文化を大々的に紹介する展覧会があった。その中にTokyo Projectという建築部門があり、どういうわけか私の設計した「世田谷公衆トイレ」も選ばれ、展示された。 「大学セミナーハウス」も選ばれたので、学生を集めて模型をつくり、ブリュッセルに送った。 オープニングに合わせて向こうに行くと、市内のあちこちが会場になっていて、想像以上の規模で驚いた。 一つの会場で、私も出品者の一人で日本から来た、と言ってカタログの写真を指差すと、無償でそれを2部くれた。オランダ語版にするか、フランス語版にするか訊かれたので、フランス語版にした。 ページをめくって驚いた。 あの曼荼羅図で始まり、11ページに渡ってヨシザカのことが細かく紹介されている。 執筆者はルシアンだった。 私は彼があの約束をきちんと守ってくれたことを知り、胸が熱くなった。 ルシアン・クロールは今でも大好きな、そして尊敬する建築家である。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska5
| 2013-05-22 12:57
2013年 05月 05日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 15.名護市庁舎コンペ 沖縄の名護で市庁舎のコンペがおこなわれることになった。 (この要項は格調高い名文だが、当時は原昭夫さんが書いたとは知らなかった) 専門学校の課題としてやることになったが、先生の一人であるにも関わらずジュニアは、 「俺達(=象設計集団)は俺達で出すからお前達は今日から敵だ。 だから、終わるまで絶対顔を合わさない」 と言って授業に来なくなった。TAである私は(ひでぇもんだ!)と思ったが、なんとか学生の案をまとめ(3チームあった)提出間際までこぎ着けた。 丁度その頃、ジュニアから吉阪研に電話があった。 案ができたから模型の作れる奴を探してくれという。 探したが見つからなかったので、その足で歌舞伎町の裏にある象の事務所に行き、 「ごめん、ジュニア、見つからなかった」と言った。 すると壁を指差された。そこには予定表が貼ってあって、模型班のトップに私の名があり、スケジュールが書いてあった。 憮然とした。 「できるわけないだろ!!」と言うと、 「人数はちゃんと確保したからお前が指示しろ!」と言う。 またまた憮然とした。 しかも三六判2枚(1.8m×1.8m)の大きさで、5日間でやれという。 この暴虐無人でめちゃくちゃな振り方は正にジュニアだ。 だが、案のスケッチを見たら結構おもしろそうだった。 迷った末にやることにした。 まだ10日くらいはある。終わってから専門学校の学生達が作業する合宿先に駆けつければ何とか成るかもしれない。 それから5日間、ほとんど毎日徹夜が続いた。 そして5日目の夜、ほぼ形が出来上がった。 シュウちゃん(山田脩二)に写真を撮ってもらおうということになり、みんなで脩二さんを探したが見つからなかった。すると樋口さんが、 「シュウちゃんのことだから、たぶん、ここにいるだろう」と言って、六本木のバーに電話をかけた。見つかった。 翌朝、太陽が東の空から昇ろうとする頃、ヘベレケに酔っぱらった修二さんがカメラの機材を抱えて現れた。 みんなで模型を担いで屋上に上がった。 写真撮影が始まった。 修二さんは何か指示しているが呂律が回らず、意味も不明だ。 私は久しぶりに見る太陽と、その暖かさで少し上気したのか、突然、鼻血が出て来て、止まらなかった。無理も無い。ほとんど5日間寝ていない。 布団部屋に連れて行かれ初めて熟睡した。 起きたら夕方の5時を過ぎていた。 脩二さんが眠い目をこすりながらやって来て、「ヒグチ〜、できたよ」と言いながら写真の束をドカッと机の上に置いた。 見て驚いた。 どれもがよかった。 凄いな〜と思っていると、 「でも、これはこの木の陰が写ってるからダメ。これもこの影が強いからダメ。これもこの線が強過ぎるからダメ」と延々と駄目出しをして、「だから使えるのはこれとこれの2枚だけ」と言った。 普段はただの酔っぱらいだが、プロのカメラマンはやっぱり凄いな〜と初めて脩二さんのことを尊敬した。 それからすぐに新大久保の学生達の合宿先に戻った。 私が最後に見た時からほとんど進んでいない。 それから5日間、ほとんど毎日徹夜の生活が再び続いた。 そして5日目の夜、2つは出来上がったが、3つ目は未完のままだった。 「出さないとこれまでの努力がすべて無駄になる。 できる限りのことをして何とか出そう!!」 そう励まし、ハッチャキになって図面を描きまくった。 夜の11時半を回った頃、最低限はできたので梱包し、外に待たせてあった車に飛び乗った。 それはメンバーの一人のレース用の車で、助手席には座席が無かった!! シャーシにしがみつき、車は凄いスピードで深夜の新宿をぶっ飛ばした。 西新宿駅前のランプを回る時には車輪が浮き、ガソリンの臭いがした。 12時少し前に新宿中央郵便局に着いた。長蛇の列だった。 「あ〜、ダメだ!これで俺達のコンペは終わってしまった・・・」 そう思った。 すると、郵便局員が出て来てマイクで、 「今ここに並んでいる人達は皆、今日の消印になりま〜〜す」と言った。 凄い拍手が湧き上がった。 途端に梱包を解いて、図面を地面に拡げ、(どういうわけか持っていた色鉛筆で)必死で色を塗った。すると、上からライトが差して来て、 「もっと右。そこそこ。それから下。ついでにその左も。それからこっちも」 とやけに外野がうるさい。 見上げると象の連中だった。 ほどなく仕上げて再び梱包し、12時半を過ぎた頃、出せた。 再び新大久保に戻ってみんなで祝杯を挙げた(はずなのだが、それから先は私は昏睡状態だったらしく、まるで記憶がない) へとへとに疲れていたが、とても充実してハイな10日間だった。 結局このコンペは象が1次に残り、2次も1席になって、初めて公開コンペで勝った。 ある晩、U研でヨシザカを囲む会があった。 そこへいきなりジュニアが乱入し、大声で、 「先生〜!勝ちました〜!!」 と叫んで図面や説明書を拡げながら、いかにこの建物が素晴らしいかを凄い勢いで捲し立て始めた。 皆はその勢いに気圧されて黙って聴いていたが、ヨシザカはニコニコウンウン頷きながら息子の自慢話を聴いてるようだった。 ジュニアがとても羨ましかった。 俺も絶対こういう風にヨシザカを喜ばせてやろうと思った。 それがまさか1年半後に逝なくなってしまうとは・・・ その時は思ってもいなかった。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-05-05 16:12
2013年 05月 03日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 14.栃木県立博物館コンペ 早稲田祭が終わって間もない頃、 「栃木県立博物館のコンペに指名されたので、手伝ってもらえますか?」 とヨシザカから尋ねられた。二つ返事で引き受けた。 戦争ミュージアムを手伝ってくれた下級生にも声を掛けると、皆OKだと言う。 私が代表でU研に打合せに行くと、既にエスキスはほぼ出来上がっていて、図面はいいから現地に持って行く模型を作ってくれ、ということになった。 大きさは車で持って行ける最大寸法にしようということになり、1.5m角くらいになった。 建物はほぼ長方形でそれほど難しくはなかったが、建物の四面を細かな文字状のルーバーが覆うので、それを作るのが大変だった。 「家内制手工業みたいだな」と言いながら毎日毎日、細かな文字状のルーバーをみんなで手分けして作っていった。 ヨシザカは真夜中に仕事から戻って来ると一旦自宅の階段を上り、大きなフランスパンとチーズとナイフを持って下りて来て、それをU研のダルマストーブの前でゴシゴシ切っては 「皆さん、いかがですか?おいしいですよ!!」と言って、自らが配って歩いた。 そして一通り配り終わると、エスキスを見ながらみんなの議論の輪に加わった。 一緒にコンペに参加するのが楽しくて仕様がないという感じだった。 夜、仕事を終えたOBもよく姿を見せた。 ヨシザカは誰とでも率直に意見交換をし、良いと思ったらその意見を取り入れた。 ある夜、一つの事件が起きた。 「昨晩、UFOを見たので吉阪先生に報告に来ました」という不思議な人が現れた。 あいにく(というか、丁度良いことに留守だったので) 「ヨシザカはいません」とKが言うと、「じゃ、お戻りになるまで待ちます」と言う。 困ったなと思いながら作業していると、ヨシザカが戻って来た。 不思議な人はダルマストーブの前に座っているヨシザカの所に行って何かを話し始めた。 最初はにこやかに聞いていたが、やがてヨシザカは大音響を発した。 「お前のような不埒な奴は今の何十倍も努力が必要なんだ〜! それがわからないのか〜!! とっとと消え失せろ〜!!!」 と怒鳴った。不思議な人はアッという間に消え失せた。 私達はポカ〜ンとして、何があったのかさっぱりわからなかった。 結局、模型も図面も栃木に持って行く当日のギリギリの時間までかかった。 黙ってダルマストーブの前で座って待っていたが、やがてヨシザカは大音響を発した。 「時間を守らぬ奴は礼儀知らずの最たる者だ〜!! そんなこともわからないのか〜!!!」 みんなビビって、アッという間に出来上がった。 そしてみんなで記念撮影をおこなった後、模型を積み込み、車は栃木に向かった。 このコンペの結果は発表が延期につぐ延期で、結局、N設計が選ばれた。 当選案を雑誌で見たが、あのUFO事件の時のように理由はさっぱりわからなかった。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-05-03 22:48
2013年 03月 07日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 13.戦争ミュージアム 吉阪研では毎年M1は国際コンペをやるのが慣わしだった。 だが、私達の代はそれに見合った国際コンペが無かった。 「ミュージアムをやりなさい。そしてそれを早稲田祭で発表しなさい」 とヨシザカから不思議な提案を受けた。 真意が掴めなかった。何をやれば良いのか、さっぱりわからなかった。 (後になって、ヨシザカのアトリエのU研が栃木県立博物館の指名コンペに参加するのを手伝った際、「これだったのか!」と思った) だが、そうとは知らない私達5人はいろいろ話し合ったが、いつまで経っても埒が明かなかった。仕方がないので、しびれを切らした私が、 「戦争を主題にしたらどうだろう? 賛成でも反対でもなく、どちらにも加担しない、 客観的に戦争を見つめるミュージアムをつくったら?」 と言った。 他にこれといった意見が出なかったので、それをやることにした。 敷地は皇居前広場がいいだろうということになった。 だが、早稲田祭(正確には、同時期におこなわれる理工展)で発表するには私達5人ではパワー不足なので、下級生を集めることにした。 ヨシザカの授業の最後に時間をもらい、1年生に話をした。 「あれじゃ、ちっともアジったことにならないな」とヨシザカから辛い採点をもらった。 だが、どういうわけか10人くらいのメンバーが集まった。 週一でみんなで集まりアイデアを出し合ったが、イマイチ盛り上がらなかった。 仕様がないので、夏休みにみんなで裏磐梯に合宿に行った。 喜多方の蔵を見たり、ラーメンを食べたりするのは盛り上がるのだが、宿屋に戻ってアイデアを出し合う段階になると皆沈黙し、相変わらず前へは進まなかった。 言い出しっぺでリーダーである私は内心焦った。 夏休みが終わり、いよいよ早稲田祭が近づいて来た。 発表場所は51号館のB1階のドライエリアに決まった。 あまり見えない場所だし、インパクトが無いので、51号館(18階建)をそのま新聞紙とロープで覆うことを提案したが、(ヨシザカはおもしろいと言って理工学部の教授会に掛け合ってくれたが、)却下された。 いよいよ焦った。 大学の一室をもらい、ほとんど合宿生活状態になった。 (その時、同期のAと一緒に徹夜をしていて、私の好きだった曲が「サキソフォン・コロッサス」に入ってる「セント・トーマス」だとわかり、ジャズにのめり込むようになった) ドライエリアの模型を作って、いろんな案を検討しながら何とか打開しようとした。 夜中にヨシザカが来て討論の末、決まりかけてた案がよく潰れた。 少しカリカリした。 結局、(当時、理工学部で新校舎を増築中だったので)建設会社から足場を借りて3層分のキュービックな空間をドライエリアに組み立て、内部に展示をすることになった。 他にも、漁協から漁網を借りてドライエリアを覆ったり、ヘリウムガスで風船を大量に飛ばしたりした。 ここに至って、一つの大きな問題が露呈した。 足場や漁網でミュージアムを組立てても、内部に展示する物が何もない!! 世界中の現在進行形の戦争を地図にプロットするくらいならできるが、その一つ一つを掘り下げて因果関係を説明するのは難しい。 ビデオをつくるには時間とお金がない。 人を呼んでシンポをやるには手遅れだ。 話し合ううちにさらに時間が無くなったので、とりあえず各自で展示物を5つ以上作ることをノルマにした。 私もこのプロジェクトで私なりのメッセージを伝えたいと思った。 何枚か絵を描くうちに、戦争のアンチテーゼを訴えるには逆に戦争の生々しさから遠ざかった方が良いと思うようになった。 人間だけでなく動物や昆虫、草花も倒れていて、それをポツ〜ンとした哀しみで見つめる子供、という構図が自然と出来上がって行った。それをシリーズにして何枚も描いた。 (そのうちの一枚は、その後、国連の軍縮ポスターの国内コンペで銀賞に選ばれた) いよいよ当日の朝がやって来た。 徹夜で作った展示物をドライエリアに運び込み、足場で組んだ3層のキューブの内や外に取付けて行った。 本当のことを言うと、その作業をしながらとても惨めな気持ちだった。 いろいろ考えやってきたことが、この程度の、高校の文化祭の延長でしかない。 もっと劇的で建築的なやりかたがあったはずなのに、とうとう見つからなかった。 俺はリーダーなのに、チームを勝利に導けなかった。 なんて最低なんだ!! 敗北感に浸りながら呆然と足場のキューブを見上げていた。 そこに朝一番の客がやって来た。ヨシザカだった。 黙って静かにゆっくり見ている。 私は耐えきれなくなって、 「先生、これはダメでした。あれもダメでした。これもダメでした。あれもダメでした」 と言った。するとヨシザカは、夜中の討論とは打って変わって、 「これは良かった。あれも良かった。これも良かった。あれも良かった」と言った。 初めてヨシザカから教育者としてのレッスンを受けた。 もちろんその時、後に私が教育の現場に立つことになろうとは知る由もなかったが・・・ かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-03-07 21:41
2013年 01月 14日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 12.大学院の授業 どこの大学でも、大学の授業と比べ大学院の授業のコマ数はグッと少なくなる。 それだけ自由度が高いとも言え、自分に興味のあることがあればそれに熱中して時間を費やすことができる。だが、多くの人間はそうすることをせず、2年間をほぼ無難に過ごし、修了証書をもらって出て行く。 いわゆるモラトリアムだ。 時間の無駄で人生の無駄だ。 だから私は余程の熱意がない限り、大学院に行くことを勧めない。 それより早く社会に出て自分の力の無さに気づき、実践の中から多くのことを学んだ方が早いし身に付く。 大学院に行って価値があったという人間をほとんど知らない。 例外があるとすれば、それは私だ。 私は大学院の2年間でその後の生き方がほとんど決まってしまった。 大学4年間より遥かに濃密な時間を生きた。 ヨシザカが言うように、ただ学ぶのではなく実践に参加する中から多くのことを学んだ。 それは追々明らかにして行くとして、実際の授業でも不思議なレッスンを受けた。 M1の前期にヨシザカの授業が10回程あった。 都市計画概論だったか何だったか、講座の名前は憶えていない。その代わり、それと中味は違っていたことはよく憶えている。 毎回、黒板に不思議な図形が描かれた。 例えば、こんな感じだ。 ![]() 社会の仕組みや個人の関係について述べながらこんな図形を黒板に描いて行く。 次の回の授業でも同じようなことを述べながら、だが違った図形を黒板に描いて行く。 次の次の回の授業でも同じようなことを述べながら、またまた違った図形を描いて行く。 話の内容は今となっては正確には思い出せないが、毎回違った図形を描いて行くヨシザカの姿だけは鮮明に憶えている。 ヨシザカはいつも「絵を描きなさい。絵は文字の100倍喋る」と言っていたが、それを実践していた。自分の世界観を獲得するために毎回黒板上で格闘していた。 (ただ、図形自体は何度か描くうちに既に出来上がっていたものだと思う。本人はそれを追確認しながら描いていたのだと思う) だが、こうした姿を傍観者的に眺める学生達が気に食わなかったのだろう。 ある時、私達に向かって 「みなさんが後の方の席に座るのは自由だが、前の方に来れないというのは私の力に負けているからだ。もっと私と戦おう、同じ土俵の上で考えてみよう、と思うなら前の方の席に来て聴きなさい」と言った。 だが、私達は前の方へは行かなかった。 確かにヨシザカのプレッシャーに負けていた。 この授業の最後にテストは無かった。 代わりに誰か一人を選んでその人物の伝記を書けというレポートが出た。 私は迷わずピカソについて書いた。 正確には、1937年のピカソに焦点を合わせながら彼の芸術について書いた。 なぜなら、最初に私がピカソを知り、虜になった作品は、「ゲルニカ」(1937)の習作の一つをもとに描かれた「泣く女」で、それが描かれた1937年のテンションの高さに昔から強く惹かれていたからだ。 そして(たとえ技巧的には多くの豹変を繰り返しても)ピカソの生涯をずっと貫いていたのは、強い表現主義の精神だったと論じた。 一気呵成に一晩で書いた、ピカソが絵を描く時のように。 そのレポートを読んでヨシザカは「おもしろい」と言った。 私はとてもうれしかった。 ヨシザカは都市計画なんて血の通っていない名前の学問よりも、それを構成している個々の人間の方が好きなんだ、その人間の生き様や道程の方がずっと好きなんだ、と確信した。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-01-14 20:31
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