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2012年 08月 25日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 6.写真 吉阪研のM1になって最初の出来事は、高田馬場の「葉隠」での「新入生歓迎コンパ兼追出しコンパ」だった。(当時、ヨシザカはハーバードの客員教授でアメリカにいたので、ヨシザカ抜きでおこなわれた) 修士を終えて出て行く者に混じって、神戸大で教えることになったSさんもいた。 Sさんは研究室の名物ODr(オーバードクター)で、私も学部の時から雑誌の記事でよく知っていた。学生運動の闘士で、ヨシザカが理工学部長の時には数々の武勇伝(?)を残し、それでいながらみんなに深く愛されていた。その人とすれ違いに私は研究室に入ることになった。 一升瓶を持って「船橋ヘルスセンター」を熱唱した後、「何か欲しいものはないか?」と訊かれたSさんは、「後ろ盾のない神戸に行くので、せめて俺を背中から守ってくれるよう、ヨシザカの等身大の写真が欲しい」と言った。 その場で、今年のM1が指名され、写真の得意なMが撮ることになった。 私も助手で手伝うことになった。 ハーバードから戻って間もない頃、その時間しか空いてないとのことで、二人して早起きし、ヨシザカの自邸に朝6時に撮影に行った。 ブザーを押し、下で待っていると、ヨシザカはピロティ上の玄関から顔を出し、寝起きの甚平のままスタコラ階段を下りて来た。そして竹薮の前でポーズをとった。 だが、Mがシャッターを押そうとすると、 「何かが足らん」と言って、また家に戻って行った。 そして大きな虎の張り子を持って戻って来るとそれを横に置き、再びポーズをとった。 私は笑いが止まらなくなるのをじっと我慢しながらヨシザカを見た。 Mもグッと堪えながらシャッターを押した。 結局、この撮影は(三脚を使っていたのに)手ぶれだった。Mも堪えきれなかったのだ。 翌日Mは一人で再度ヨシザカの自邸に行き、写真を撮った。 そして自分の家の浴槽で現像をおこない、等身大の写真を2枚つくった。 一枚はSさんの元へ郵送し、残りの一枚は研究室のドアに貼った。 リアリティがあまりにあり過ぎて誰もドアを開けようとしないので、内に誰かいる時は必ずドアを半開きにするようになった。 私は毎回、研究室のドアを開ける時(たとえヨシザカがいなくても) 「先生、こんにちわ!」と心の中で挨拶するようになった。 それはヨシザカがこの世を去るまで続いた。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2012-08-25 19:39
2012年 08月 24日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 5.卒計 院の入試は散々だった。 特に最後の建築計画は終了の時間を間違え、エライ目に会った。 面接もヒドイ出来で、おまけに生意気な口答えまでしてしまった。 絶対、落ちたと思った。 だが、どういうわけかケツで引っかかり、吉阪研に入ることができた。 幸運としか言いようがなかった。 秋になり、卒計のシーズンとなった。 卒計賞を狙う面々はすぐに準備に取りかかり始めた。 だが、私は相変わらず研究室に出入りして、あの不思議な匂いに浸っていた。 M1から「来年研究室に入る4年はコンペを手伝え!」と言われ、おもしろそうだから「やります!」と答えた。それはパーレビ国王を記念する図書館の国際コンペだった。 5人のM1が占領してアトリエと化した部屋に私も籠り、毎晩徹夜をしながら手伝った。(W大では先輩と後輩が合宿しながら技術を伝授するのは当り前のことだった。もちろん、それは無償だった) (来年研究室に入る)他の4人はあまり熱心ではなかったので、私はなおさらムキになり、5人分頑張ろうとした。だからM1からはとてもかわいがられ、たくさん仕事を充てがわられた。 ヨシザカは時々、深夜にふらりと現れた。 そして模型を見ながら、あのダミ声で感想を語った。 けして命令口調ではなく丁寧な物言いだが、どこかに頑固で絶対曲げない何かが感じられた。それを脇で私はじっと聴いていた。 ヨシザカが帰った後はいつもM1の5人は「今、先生の言ったことはこういうことじゃないか?」とみんなで議論し、(模型がスペシャルに上手い)1年生のS君と私に変更を指示し、各人の製図台に戻って「さあ、やろう!」と気合いを入れ直していた。 そんな日が12月半ばまで続いた。 「みぞぶち、お前、自分の卒計は大丈夫なのか?」とみんなが心配し始め、 私も役目をほぼ終えたので、家に戻り、卒計を始めることにした。 敷地は六本木の俳優座の周辺と決めていた。(そこは3年の「劇場」の課題と同じ場所だが、当時上手くいかなかった分リベンジしようと決めていた) 題名は「Hommage a Picasso(ピカソに捧げる): 六本木アートコンプレックスセンター」で、内容は、高速道路に面して大きなコンクリートの壁を建て、ピカソの「ゲルニカ」「泣く女」「生きる喜び」の3枚の絵を描いてシンボルとし、芸術が同時多発的に起こる実験的な場をつくろうとした。 だが、それ以外は建物の規模も構成も何も決まっていなかった。 油土で模型を作り、一気呵成にエスキスした。 それを持って、12月の終わりにヨシザカに見せ、意見を訊いた。 私の説明を聞き終わるや否や、ヨシザカはいきなり油土の模型を2つに裂いて背中を合わせ、 「こういうのもあるが、どうだろう?」と言った。 私は半ば憤然として、 「もういいです。あとは僕がやります」と言って、その場を後にした。 徹夜してつくった模型をいきなり壊されたので私は憤慨したのだが、 (あれはあれでなかなかおもしろいな)と帰りの電車の中で思った。 結局、イメージとは違っていたので、やはり当初の案でやることにした。 年明けの1月1日から図面を描き始めた。 1階ができた所でS君を呼び、模型をつくり始めた。懸命に頑張ったが、2月初めの提出までにはどうやら間に合いそうもなかった。 そんな時、コンペを出し終えた吉阪研のM1達から電話がかかって来た。 「どうせ、お前のことだから、間に合わないだろうと思ったよ」 とH君が来てくれた。矩形図を頼んだ。 それが終わったと思ったらM君が来てくれた。アクソメを頼んだ。 それが終わったと思ったらMさんが来てくれた。プレゼンの配置図を頼んだ。 S君やOさんも来てくれ、最後の方は(寝不足も手伝って)まるで誰かの卒計の手伝いをしているような錯覚がした。 こうして私の卒計は提出日のギリギリに(正確に言うと午後6時に)出せた。 最後の方は、徹夜、2時間、徹夜、2時間、徹夜、2時間・・・だったので、出し終わったその夜は家に帰ると食事もせずにベッドに倒れ込んだ。 階下でお袋が何か叫んでいるのが聴こえたが無視して眠り続けた。 起きたら翌々日の昼だった。 後で聞いたら「朝ご飯だよ!」「昼ご飯だよ!」「晩ご飯だよ!」と叫んだのだと言う。 5日後に卒計の結果発表があった。 (当時のW大では講評会はなく、ただ1位から10位までの名前が発表されるだけだった。そして上位10位の図面が前の席に並べられ、残り約180名の図面は出席番号順に並べられた。それを自分で見入りながら、どこが良かったのか悪かったのかを各人で判断するだけだった) 私のは11位だった。(W大では、10位以下は皆11位と言う) Fも11位だった。Tは村野賞(卒計賞)だった。Team MFT は明暗を分けた。 ヨシザカは卒計の採点には参加できなかった。 その直前に彼はハーバードの客員教授でアメリカに行ってしまったからだ。 6月に戻って来た時、私は自分の卒計をヨシザカに見せた。 一枚一枚ヨシザカは丁寧に見ながら、 「で、順位は何位だったんだ?」と訊いた。 「11位です」と答えると、 「それはおかしいな?!」と言って、表紙に赤鉛筆でサインをした。 だから、私の代の卒計でヨシザカのサインの入った作品は、私の卒計だけである。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2012-08-24 22:56
2012年 06月 22日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 4.卒論 W大では卒論と卒計は必修だった。 卒論は各研究室の前に張り出されたマスターやドクターの研究課題を見て自分に合った物を選び、その下に付いておこなうのが常だった。 だが、どの研究室の課題を見ても惹かれるものの無かった私は、ヨシザカに直談判した。 「先生、イレギュラーカーブの研究をやろうと思います」 「それは何ですか?」 「コンパスや定規では描けないフリーハンドの曲線です」 「ああ、それじゃ、少なくともバロックからやらないとダメだ。 ドクターのT君にOKをもらったらやってもいい」 Tさん(オーバードクターで研究室の主だったので、私達4年は秘かに長老と呼んでいた)の所へ行き、話をすると、それとはまるで関係ない話を延々とされた。そして最後にポツリと言った。 「ハンコは忘れたから、後で押しとくよ。紙はそこに置いといて」 こうして私の吉阪研通いが始まった。 吉阪研は都市計画に属している研究室だが、正直言って民俗学研究室のようだった。 部屋を開けるとアフリカの木製チャリ(イス?)が正面にころがり、その脇に理由(わけ)のわからない不思議な彫り物や入れ物がゴロゴロしていた。 少なくとも都市計画というハイソな匂いとは逆の匂いがムンムンしていた。 実際、都市ではなく農村漁村を研究している者が多かった。(漁村の方が農村より人気があったのは、食事の豊富さに因る) 私は週に一回通ってTさんに進捗状況を報告したが、それが終わった後も部屋に残ってその不思議な匂いに浸っていた。この不思議な匂いはTさんと(同じく長老の)Fさんの吸うパイプの匂いも合わさって、私には麻薬のようだった。 居場所を見つけた私は、卒論に勤しんだ。 ヨシザカの言葉に発奮して歴史の勉強を始めた私は、バロックより更にさかのぼり、イレギュラーな形がプリミティブな状態で生成する瞬間を突き止めようとした。 そして結果的にそれは空中分解した。 「イレギュラリティーに関するメモ」という、イレギュラーカーブ以前の、形の生成の覚え書き程度の試論にとどまった、というか、その程度で終わってしまった。 本当はもっと具体的で濃密なものになるはずだった。 夏休みに私はスイスのアルテミス版のコルビュジェ全集をフランス語の辞書を引き引き読破しようとした。(院の入試のフランス語の勉強も兼ねていた) 目的はコルビュジェの建築遍歴の中でイレギュラーカーブが生まれる過程を追いながら、それらを分類し、追体験することだった。そしてそれなりの成果を得ることはできた。 だが、それは卒論の没原稿となった。 全体の流れがバナキュラーやエコロジーを含んだ哲学的なものになってしまったため、コルビュジェのイレギュラーカーブの話はどうしても唐突でそぐわなかったのだ。 (だが、後年、ある建築雑誌の懸賞論文でそれは日の目を見た) いずれにせよ、私の卒論の発表は中途半端で散々だったが、それを聴いたある教授が 「吉阪研に行く学生は何でこういつも哲学的なんだろうね」 と言った言葉は今でも深く耳に残っている。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2012-06-22 22:48
2012年 06月 11日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 3.再びの出会い 大学2年の半ば、住宅設計の課題があった。 それは初めての本格的な設計課題であるにも関わらず矩計図まで要求する過酷なものだった。(W大の課題はいつもこんな感じだった) ずっとサボって来た私も真剣にやらざるを得なかった。 夢中でやった。 その結果、初めて建築のおもしろさに目覚めた。 以後、夢中で建築にのめり込んだ。 だが、真剣にやればやる程、私の夢と現実の評価は乖離し、4年になった時には正直疲れてしまった。 これだけ世間(大学)の評価とわたしのやりたいこと(自由でアートな建築)との間にギャップがあるのならやっても無駄だ、もうやめようと心に決めた。 そんな時に再びヨシザカと出会った。 4年の前期の共同設計だった。 今W大で先生をしているFや日建設計のお偉いさんになったTと3人でチームをつくり(「team MFT」と言った)、課題をおこなった。 だが、水と油くらい個性の違う3人が組んだので意見はいつもまとまらず、3案バラバラに持って行っては毎回パラレルに発表した。そんな光景が提出の2週間前くらいまで続いた。 非常勤で教える建築家のU氏は苦虫を噛み潰したような顔をして、早くまとめてくれ!と不機嫌そうに煙草をスパスパ吸った。 だが、ヨシザカは違っていた。 「M案は?」「F案は?」「T案は?」と毎回促し、どの案も「おもしろい、おもしろい」と誉めてくれた。稚拙なスケッチを持って行っても、「絵は言葉よりも100倍しゃべる」と楽しそうに魅入っていた。 私はそれまでこんなに好奇心を丸出しにしてすべてを楽しむ先生とは大学で会ったことがなかったので、少し戸惑うと同時にとてもうれしかった。 結局一週間前の深夜に妥協し、(私の案を取り下げ、代わりに二人の案を組み合わせて、湖畔の山の斜面に横長の十字架が埋込まれたような案をつくった)どうにか提出は間に合った。 U氏は相変わらず不機嫌そうに発表を聞いていたが、ヨシザカは「おもしろい」と言ってくれた。 結果はA+だった。 一条の光が射し込んだ。 この方向に行けば、俺はまだ建築を続けられるかもしれないと思った。 ヨシザカの研究室に行こうと思った。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2012-06-11 19:07
2012年 01月 20日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 2.書物との出会い 大学に入学した当初、私には建築は自由で芸術的なものだという幻想があった。 だが、実際の授業は四角四面で鋳型にはめ込むようなものばかりだった。 幻滅した。 詩の本を読み耽り、ラグビーに興じ、挙句の果ては文科系に転科しようと考えた。 だが、それを押し止めたのは、偶然、図書館で目にした2つの建物だった。 ハンス・シャロウンのベルリン・フィルとコルビュジェのロンシャンだ。 こんなことができるのなら、もう少し続けてみようと考え直した。 ロンシャンの本(正確には「GA7 Le Corbusier La Chapelle de Ronchamp」)の序文はホーチミン髭が書いていた。その中にこんなフレーズがある。 ・・・だがIBMでもいってるように、人間は論理的な思考に弱く、根気がなくて、なまけもので、気まぐれで、単調なことは続かず、不注意で、のろまで、何をしでかすか解らないという存在だと考えるべきだ。・・・ おもしろい奴だなと思った。そして、ロンシャンを建築における真行草の草書だと言った。 少し興味を持ち、彼の本を調べ始めた。 「現代日本建築家全集 」(三一書房)の第15巻はホーチミン髭と芦原義信の二人の巻で、(今から思うと、ほとんど正反対の二人がなぜ同じ巻に収められたのかとても不思議だ)この本を読む(というか見る)とホーチミン髭と彼の設計チームが他の誰とも違っていることがよくわかった。 ちっとも綺麗ではないしカッコ良くない。ディテールは厚ぼったくて重く、洗練されていない。まるで縄文人の建築のようだ。 だが、どこか温かくユーモアがある。 太々しいくらい堂々としていて、人を惹き付ける何かがある。 極めつけは、ある雑誌の座談会だった。 神田の古本屋で買った雑誌(SD6703)の中に「パレス・ゾーンの将来像」という特集があり、新進気鋭の都市計画家や建築家を集めて皇居周辺ゾーンの再開発と景観について話し合う様が載っていた。 あまり興味は無かったが、ホーチミン髭もその中の一人だったので読んだ。 会は司会通りに手際良く進行し、(法整備の話なども済んで)正にシャンシャンシャンと終わろうとしたその瞬間、ホーチミン髭が突然、そんなんじゃダメだ!もっとこの場所を偏愛するバカ者が出てきて初めてまちは良くなるんだ!というようなことを言い始め、会は混乱し、収集がつかないまま終わってしまった。 とても不思議な座談会だった。 そして思った。 こいつは絶対、形式主義者じゃない。ホントに熱いバカ者で実践者だな、と。 ヨシザカを初めて強く意識した。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2012-01-20 23:02
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