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2017年 11月 29日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編24. 「吉阪隆正賞とは何か」を深く考える一昨日、早稲田で第4回吉阪隆正賞の授賞式/記念シンポジウムがあった。 今年の受賞者は黄聲遠+田中央工作群(Huang Sheng-Yuan + Fieldoffice Architects)だ。 この知らせを最初に聞いた時は、正直言って、失望感が少なからずあった。 また、建築関係者なのか・・・ 吉阪隆正賞のユニークな点は、ヨシザカの多面性に重きを置いて、建築に留まらず全ての分野でこれからの未来を切り開いていく可能性と実践を備えた才能に光を当てることだ、と(少なくとも私は)解釈していた。 第1回目は舞踏家で、自らの鍛錬と地域の蘇生の両方を実践している田中泯さんだった。これには諸手を挙げて賛同した。 2回目は路上生活者の視点から逆説的なヴィジョンと提案をする坂口恭平と、素人の目線からあっけにとらわれるようなバイタリティーと行動力で周囲を巻き込んで変えて行く次郎丸慶子に与えられた。これも何ら異存は無かった。 だが、3回目は建築家の集団アーキエイドで、その受賞理由が、彼らが東北の復興支援活動を今年で止めるのでこれまで行って来た活動に対する評価、というのだが、一遍に視点がスボマり、ショボくなって、ガッカリした。やはり、建築家が建築家に賞をやるというのは内輪の談合に似た仲間褒めで、吉阪隆正賞にはそぐわない。 だから4回目の発表を聞いた時も少なからず失望した。 だが、早稲田での受賞式の講演を聴いて、少し考えを改めた。 黄聲遠+田中央工作群の作品とアトリエは7月の有形学会2017 in台湾で既に見ていて、彼らがどういう傾向の作品をどういう風にして作り出すのかは知っていた。黄さんのスライドと説明はその時感じたものを改めて思い出させてくれた。 彼らは自らが生活を共にしながら建築や土地や風土と向かい合っている。 このやり方は象設計集団のやり方と似ている。 学生の共同設計や卒計合宿の延長だと言ってもいい。 建築を始めた頃のこの原形質のやり方は、やがてプロとなり社会のシステムに組み込まれていくと自然と消滅してサラリーマン化してしまうのが普通だ。 だが、彼らは宜蘭の田園の中で、都会と距離を置きながら、この原形質のやり方に執着し、続けている。(これも象設計集団のやり方と似ている) 象は親分が3人いたが、田中央工作群は黄さん一人だ。その分、スタッフの自由度は高まり、アイデアやデザインの自由度も高まっている。そして、この一見アマチュア的なやり方が、硬直化してルーティン化した建築やまちづくりの現場に一石を投じ、波紋を広げている。 実践の中から学び、気づき、この小さな学校のような工房から巣立っていく若い才能は、必ずや台湾、アジア、世界を変えていくだろう。 そうした活動自体に賞を与え、応援するというのは吉阪隆正賞的かもしれない。 そう思った。 吉阪隆正賞は、 まだ未知だが、 これからの未来に一石を投じる才能 を世に知らしめる賞であって欲しい。 最後の5回目にどんな才能と出会えるのか、楽しみだ。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2017-11-29 21:07
2017年 07月 10日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編23. 有形学会2017 in台湾 今年はヨシザカの生誕100年にあたる。 以前から台湾でみんなで集まろうという計画があり、だったら台湾のまちづくり学会と合同で有形学会をやろうということになり、先日それが実現した。日本から35人が出かけて2日間、有意義で濃密な時間を過ごした。 集合は台北の松山空港だったが、羽田で早朝多くの顔見知りに出会い、同窓会ムードがいきなり始まる。(羽田国際空港は初めて利用したが、関空やいろんなデザインの寄せ集めでアイデンティティが無く、ガッカリした) 松山空港ではさらに多くの先輩、後輩に出会い、みんな懐かしくてワイワイ話を始め、動かない。OBの陳さんの先導でやっとバスに移動し、宜蘭に向かう。 宜蘭は台北からハイウェイで大きなトンネルを抜け40分程で着くが、昔は山を越えて行かなければならなかったので開発が遅れ、その分、豊かな自然が残っている。 海に浮かぶ特徴的な形をした亀山島がよく見える。(私にはたい焼きくんに見えてしょうがなかったが・・・) 宜蘭に行ったのには理由(わけ)がある。今度の吉阪隆正賞の候補に上がっている黄聲遠(ホァン・シェン・ユェン)+田中央(フィールドオフィス・アーキテクツ)の作品と、象が20年ほど前に設計した宜蘭県庁舎を見るためだ。 羅東文化工場(1998-2012)に着き、黄聲遠さんの説明を聞きながら見学する。 まるで大阪万博のお祭広場のような大きな半屋外の鉄骨空間の下に、RCでできた基壇のような建物があり、そこから空中を舞う階段を上って、どキャンティで飛び出たギャラリー内に入る。(今日は本当は休館日なのだが、特別開けてくれた。)その屋上からは街が一望できる。 ここに至るまでに市との長いやり取りで苦労したそうだが、完成したものからはそうしたものは微塵も感じられず、全体の構成といい、造形の割り切り方といい、若々しさとエネルギッシュさが伝わって来る。 その後、象の宜蘭県庁舎(1988-2001)に移動する。 思っていた以上に大きい。名護市庁舎や宮代町の進修館で開発した技をさらに巨大に縦横無尽に駆使している感じだ。特に屋上庭園と水郷のような中庭は自然が溢れ、凄い。 本当はもっと見ていたかったが、時間がなく、次の目的地、黄さんと田中央のオフィス(1994-)に移動する。 その名の通り、本当に水田や畑の中にあったのにはびっくり。そばには旧日本軍の滑走路が昔あって、太平洋戦争末期は神風特攻隊がここから飛び立ったらしい。 オフィス内には巨大な敷地模型と、それと混然としたエスキス模型が散らばっていて、彼らは生活を共にしながら建築に没頭し、昔の象を思い出させる。 その後、再びバスで移動し、宜蘭社会福祉センターと津梅橋遊歩道(1995-2008)を見る。福祉センターに続く裏の小径は市民が互いに供出し合い生まれたとのこと。センターは分節化や凹凸、材料や色彩などで周りの住環境に溶け込むようにデザインされている。そしてブリッジでそのまま河原につながり、津梅橋遊歩道で対岸まで行ける。この遊歩道は橋の側面に吊り下げられ、混雑する車道の下にあり、安全で、川面に近い位置にあり、休憩もできて面白い。発想が若々しい。 その後、宜蘭の北の礁渓温泉に移り、ホテルで晩餐会をおこない、象がやった足湯で遊んだ後、疲れて寝た。 翌日は台北に移動し、台湾のまちづくり(社区営造と言う)学会と合同で、有形学会をやった。朝10時から夕方6時近くまでほぼプログラム通りに進み、とても濃密な時間を過ごした。 10:00-10:30 日台代表の挨拶(通訳:陳亮全 その後も全て) 10:30-11:50 「吉阪隆正と有形学」 「1.建築と人となり」(齊藤祐子:アトリエ SITE) 「2.有形学(都市計画など)」(後藤春彦:早稲田大学) 11:50-13:00 「ワークショップ」(みぞぶち かずま) 13:00-14:00 昼食(弁当) 14:00-14:40 「台湾の参加型まちづくり事例」(口口青) 14:40-15:20 「アジアのまち再生」(重村力) 15:20-15:50 質疑・休憩 15:50-16:30 「台北市の再開発現状と課題」(張立立) 16:30-17:10 「日本の小規模住環境整備(再開発)」(田中滋夫+都市デザイン) 17:10-17:40 質疑・総括・閉会挨拶 二人の先輩(重村さんと田中さん)の真面目な話をこれまできちんと聴いたことがなかったが、(立場は違うが、)どちらもとてもためになった。ヨシザカだけでなく、その思想を受け継ぎ実践する先輩達の仕事も、これからはきちんと勉強しようと思った。 その後、懇親会場に移動して日台の親睦を深めた後、HとYとホテルに移動して夜市に繰り出した。バーで軽く飲んでいたら、象の旧知のOB、OG連中が入って来た。彼らもここに足繁く通っていたらしい。同じ穴のむじなで育つと、嗅覚も似てくるのかもしれない。 翌朝は昨日の夜市の場所(朝もやってる)で食事をした後、日本に帰るHやYと別れ、台北のまちを一日歩いた。その後、母が育った台南へ旅立った。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2017-07-10 17:53
2017年 06月 29日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺編22. 池原先生のこと 一昨日、久しぶりに大隈講堂に行った。 5月に亡くなった池原義郎先生を偲ぶ会があったからだ。 式が始まる直前に着くと、正面のスクリーンに池原先生の語る姿が映されていた。途端に40年以上前に戻ったような、懐かしい気持ちになった。 私が入学した当時のW大の教授は、意匠系は意匠が池原、穂積、安勝さん、都市計画はヨシザカ、武、戸沼さん、歴史は保忠さんで、今から思えば皆とても個性的でおもしろかった。だから、学生は自分の好きな先生を選んで、その研究室で卒論と卒計を取った。(当時、W大は両方取らなければならなかった) 池原先生で忘れられないのは、修士の時に受けた意匠の授業だ。 所沢聖地霊園や勝浦の住宅など、毎回自分で設計した図面の原図のスライドを映しながら、学生の方は見ずにただひたすら、この時どのようなことを考え、どのように形にして行ったかだけを語り続けた。学生にわかりやすく説明しようなどという気持ちはこれっぽっちもなかった。 それは初めて受けたプロの授業で、緊張感があった。 毎回真剣に聞いた。そしてわかった。池原流とは、道行きに沿ってひたすら気持ちをデザインしていく作法だということを。 私が大学で初めて建築に目覚めたのは、2年の後半の住宅の課題だった。 (それまでは、四角四面な授業に付いて行けず、文学部に聴講に行ったり、ラグビーの練習と詩の本を読むことに明け暮れていた) 矩計まで要求する厳しい課題で、夢中になってやり、初めて建築の面白さを知った。その時の私のグループの担当が池原先生だった。 池原先生は毎回出欠を取らず、持って来た人のエスキスを見て言葉少なに批評するとサッと消えた。だが、その言葉はいつも的確で、心に残った。 私は一度もエスキスを見せなかった。見せないどころか、提出も間に合わずBehindした。だが、評価はA+→Aの一段階落ちだった。そして「この人はどこか菊竹さんに似ている」と言われた。 この言葉には憮然とした。私の初めて設計した住宅は畳が空中に浮いてるような家で、1階は白砂の庭とそれを観るための縁があるだけだった。 確かに今から見ると菊竹さんに似てるかもしれないが、当時は、みんなが持ってくる「A+U」から借りて来た外国の家のようにだけはしたくないという、ただただ反抗心からだけでつくった作品で、それを誰かに似ていると言われるのは承服し難かった。しかし、それから4年半後、私は菊竹事務所に行くのだから、池原先生は何かを見抜いていたのかもしれない。 忘れられない言葉は他にもある。卒論や卒計の研究室を選ぶ時に言われた、 「自分を大切にしてくれる先生の所へ行きなさい」という言葉だ。 これを聞いた時は、なんて打算的で利己的な言葉なんだろうと思った。 しかし、よく考えてみると真理のように思えた。 自分がどんなに好きな先生の所へ行っても、自分の目指す方向と先生の目指す方向が違っていれば、良い結果は得られない。しかし自分を大切に思ってくれる先生の所へ行けば、その先生の大切にしていることも純粋に学べて、さらに良い方向へ行くことができるだろう。 だから私はヨシザカの所へ行った。 この他にも、アイデアコンペで佳作に入った時の審査員の一人が池原先生だったとか、幾つかの思い出はあるが、池原研のメンバーのように濃いお付き合いをしたわけではない。 しかし、クールでダンディーな中に、いつも建築と真剣に向かい合っていた姿は、昨日のことのように今でも深く目に焼き付いている。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2017-06-29 21:36
2017年 04月 29日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇21. 名護市庁舎設計競技の趣旨 先月まで奄美で「子育て・保健・福祉 複合施設」の基本構想・基本計画の仕事をしていた。 私は元々文章を書くのが苦手で、力むとすぐ言い過ぎてしまい、それを担当のYさんにやんわり指摘され、直すの繰り返しをしながらなんとかゴールにたどり着いた。 この報告書作成の段階で、常に私の頭の中にあり、離れなかった文章がある。 沖縄で1978-79年におこなわれた、名護市庁舎コンペの要項の最初に出てくる「設計競技の趣旨」である。それはこんな言葉で始まる。 「[目的と意義] 本競技の目的は、次の通りである。 すなわち、沖縄の地域特性を体現し、かつ要求される諸機能を果たすことが出来るとともに、市のシンボルとして良く市民に愛される市庁舎を建設するための基礎となる案、および敷地全体計画のすぐれた構想案を求めることにある。 また、本競技を公開にすることの意義は、「沖縄における建築とは何か」、「市庁舎はどうあるべきか」という問いかけに対して、それを形として表現し、実体化しうる建築家とその案を広く求めることにある。従って、すでに十分な実績を残している建築家はもとより、これから頭角を現すであろう気鋭の建築家で、地域の建築について志を同じくする方々の積極的な提案を期待するものである。 [沖縄の地域特性と市庁舎建築] 沖縄は亜熱帯に属し、多くの島々と周辺海域によって成り立ち、日本でも得意な自然環境に置かれている地域である。 古来、人々はこの自然に生き、人と自然、人と人との長い関わりの中から独特の風土が形成され、地域の個性的な感性と建築様式が生まれてきた。 しかし、現在の沖縄の建築は、このような歴史過程の結果として存在しているだろうか。建築の型、合理性、美しさは受け継がれているだろうか。 ことは建築のみに尽きるのではない。 機械技術の革新を背景とした近年の産業主義は、速やかな伝達手段を媒介として、著しく社会変容をもたらし、風土はすでに収奪の対象となるかあるいは歴史遺産として保護されるべきものとなった。地域文化が破壊していくのも、理由のないことではない。 このような状況にあって、主催者が市庁舎を建設するにあたってまず求めることは、沖縄の得意な自然条件とその風土を再考し、その上に立って沖縄を表現しうる建築家の構想力である。 市庁舎の建築にあたって、風土が問題にされる背景には、地域が自らの文化を見すえ、それを中央文化との関係のなかで明確に位置づけてこなかったと言う問題があろう。 地域が中央に対決する視点を欠き、行政が国の末端機構としてのみ機能するような状況にあっては、地域はその自立と自治を喪失し、文化もまた中央との格差のみで価値判断がなされることになるだろう。 しかし、地域に生きる市民は、すでにこのようなあり方に訣別を告げるべきだと考えている。従って、主催者の期待している新しい市庁舎は、地域の人々が自ら確認し、かつ自らを主張していくための活動の拠点となり、地域の自立と自治を支える拠点としての庁舎である。 主催者は、今回の競技において、沖縄の風土を確実に把え返し、地域の自治を建築のなかに表現し、外に向かって「沖縄」を表明しうる建築をなしうる建築家とその案を求めるものである。」 私はこの文章を大学院のM1の時に読み、いたく感動した。 それまで役所の人間が書いた文章でこんなに熱く心を動かされる文章はなかった。(当時、名護市役所にいた原昭夫さんが書いたことは後になって知った) 建築家が設計をしていく上で依って立つ根拠は3つある。 一つは場の固有性(風土、文化、敷地等)、もう一つは設計条件(クライアントの要求内容、住民の意見、スケジュール、金額等)、もう一つは建築家本人(経験、論理、感性等を通して場と要件を統合し、形や表現に還元していく媒体)だ。 このうち、場の固有性は絶対的なものだが、近年のコンペやプロポでは、場の必然性が感じられない、どこにでもあるものが建つことは多い。 だが、これだけ明快に沖縄の風土や地域の自治と向き合うことを最初に、しかも高らかに言われると、当然ながら建築家はそれと対峙せざるを得ず、かつ燃える。 かくして全国から300以上の案が集まり、2段階の審査を経て、Team Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)が勝った。 原さんは大学に入った当初は農学部で、それから工学部都市工学科に代わった変わり者で、最初は都庁に勤めたが、上司に楯突いたら小笠原の担当者に代えられ、その頃ヨシザカの考えに共鳴し、出入りするようになった(と以前、本人から聞いた。) 確かに吉阪研はW大では研究室は都市計画に分類されるが、やってることは農村や漁村などの典型的なリージョナリズム(地域主義)の研究だ。都市を研究するにしても木賃アパートや都市の隙間だったり、私のようにバラックだったり、普通でいう華々しい都市計画とは真逆だ。 こうした、上から降りてくる都市計画ではなく、地べたを這いずり回りながら下から草の根的に上がっていく考え方に原さんは共鳴したのだろう。 それは名護市役所を経て、世田谷区の都市デザイン室長になってから、より鮮明になる。 小さな区民センターや公衆トイレ、バス停、駅の外観のコンペなどを立て続けに仕掛け、シンポジウムやワークショップで地域の住民を巻き込みながら、まちづくり、まち育てを草の根的に積極的に展開していった。(トイレや駅のコンペに選ばれたおかげで私もその輪の中に加わり、原さんから多くの教えを受けた) 都市デザイン室を最初に始めたのは横浜市で、世田谷区はその後発にあたる。どちらも市長や区長の直轄で、縦割り行政に風穴を開けてつながりを良くし、早期にまちづくりをおこなうために設けられた。だが、その手法と目的は大きく異なる。 横浜市は人口300万を超える大都市で、その10倍以上の観光客が訪れる一大観光都市だ。したがって十分な資金を使って都市のアミューズメント化を図り、まちを華やかに整備する。 一方、世田谷区は23区最大の人口を誇る(それでも横浜市の1/4程度の)典型的な住宅街で、多くの予算は生活の維持向上とそれに関連する部分に使われる。当然、派手なものは少ない。(ただ、世田谷美術館は区レベルを超え、都や国のレベルの施設だ。) 同じ名前の部署でも目指す方向と内容は大きく異なる。こういうことに対し、原さんは極めて自覚的で戦略的だった。小さな闘いを仕掛けるゲリラ戦に近い手法と、誰にでもわかる言葉やテキストで住民を巻き込み、住民自体をまちづくりの主体に育てて行こうとした。外部からも柔軟に知恵をもらい、開かれたやり方でまちづくり、まち育てを実践していった。 だが、バブルが弾け、区の収入の縮小と共に外部のソフトの切り捨てから始まり、やがて都市デザイン室も都市整備部の単なる一部署に格下げとなり、活動を大幅に縮小せざるを得なくなる。やがて原さんも世田谷区役所を離れる。 私は今でも時々、原さんが都市デザイン室長だった頃に出した本やその後に多くの人とまちづくりについてまとめた本を手にすることがある。 その度に背中を後押しされるような気がする。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2017-04-29 17:51
2017年 01月 12日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇20.新しい学びの場 むしろ授業外で受けた影響の方がはるかに多い。 大体、私が修士で研究室に入った時はハーバードの客員教授でいなかった。帰ってきた後も忙しく動き回っているので、学内で接する時間は少なかった。会合の他に講演や執筆や旅行や山で、常に動きながら考え、発言し、食い散らかすように周囲に影響を与えながら、整理することはせず、ヨシザカは走り続けた。 私は幸運なことに2年間、夜間の専門学校のTAをしたので、その校長であったヨシザカと夜の酒の席で一緒に飲みながら話ができた。また、U研のコンペにいつも呼ばれたので、夜中に帰ってきたヨシザカと話したり、朝起きて降りてきたヨシザカとストーブを囲みながら談笑したりした。山やスキーにも一緒に行った。もちろん、研究室会議では毎回会って話をした。 そうした中で一番影響を受けたのは、建築や設計の話ではなく、生きていく姿勢や態度だった。 背筋を伸ばし、何におもねることもなく、年の上下や有名無名お金のあるなしに関係なく平等で、利害を恐れず自分を真っ直ぐ表明していく、気品のある生き方だった。 ヨシザカは大学という狭いカテゴリーから抜け出して、あらゆる場を学びの場、発言の場と捉えていたように思う。執筆は建築以外の主婦向けの雑誌や畑違いの雑誌、地方紙、チラシなど、頼まれれば何にでも書いたし、どこへでも出かけて講演した。 とりわけ、彼が校長を務めた夜間の専門学校の教育は、資格を得るための一般の専門学校の教育とは違って、ユニークだった。特に私がTAをしたクラスはなんでもありの不思議な授業で、ジュニア(故大竹康市)は毎回自分の言いたいことだけ書いた「番外地講座」というコピーをみんなに配って教室や居酒屋や旅先の沖縄で吠えまくり、マルキン(丸山欣也)さんも好き勝手放題を言ってみんなの頭をグラグラ揺らし、それを松さん(松崎義徳)は黙って見ていた。 この専門学校(今の早稲田大学芸術学校)は1964年に早稲田大学産業技術専修学校という名で始まり、私がTAになった78年から早稲田大学専門学校と名を変え、ヨシザカが校長になった。 この夜間の学校に対し、ヨシザカは並々ならぬ愛情を持っていた。それは、がんじがらめの大学教育ではできない何かをこの独立自由共和国でやりたかったからだろう。だが、それから2年後、道半ばでヨシザカは天国に逝ってしまった・・・ こうした体験は私の中に澱のように残った。 ふとした誤解からT大で教えることになり、19年それが続いた。 最初はすぐに辞めるつもりだったが、やってみると不思議に面白く、ワインを毎回持っていって授業の後に飲みながら本音で語り合ったり、夜6時からは別の授業をやったり、自分なりに工夫を重ねていったが、やはり大学の狭い枠組みや体質を変えるのは難しく、またそれに何の疑問も持たない学生達が飽き足らなくなり、肩を叩かれた時には喜んで辞めた。だが、やり切っていないモヤモヤは心に残った。 この度、元四ツ谷第四小学校跡地で活動しているCCAA (Committee of Citizen for Artistic Activities) で毎月第3土曜日の午後6時から8時半まで一般の人を対象に建築の講座を開くことになった。 身近な住まいを通してまちを考え、建築や都市(まち)を多くの人に愛して欲しいな、というのが動機だが、やり切っていないことをやり切りたいという思いと、私自身新たな学びの場に身を置くことでリセットしたいという思いもあった。 当初は簡単なテキストをつくってプログラムを構成する予定だったが、結局それを放棄し、無で臨むことにした。予定調和の先が見えたドラマは観る方もやる方もつまらない。それに、集まってくる一般の人の方がそれぞれの人生で得た多くの知見を持っているだろうし、それを引き出し、束ねることで新たな創造や展開ができたら、その方がおもしろいだろう。 生徒や先生のいない、羅針盤の無い旅のようだが、そのプロセスを楽しみながら私自身も多くのことを学びたい。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2017-01-12 19:58
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