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2016年 07月 27日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇19.「ロンシャンの丘との対話」展 W大の會津八一記念博物館でやっている「ル・コルビュジェ『ロンシャンの丘との対話』展 ル・コルビュジェの現場での息吹・吉阪隆正が学んだもの」を観た。 これはW大が3年程前からロンシャンの礼拝堂とその建築群の調査をしていて、その実測図とコルビュジェの青焼きの図面が展示されているのだが、(それも興味津々だが、)私のお目当てはもちろん、ヨシザカがコルのアトリエで描いた図面と当時の日記を観ることだ。 2階の真ん中奥にそれはあった。ヨシザカが描いた原図を見るのは初めてだったが、全部で6枚あった。見ながら、(当たり前だが)ヨシザカも当時は図面を描いたんだ、スタッフしてたんだと思った。 特に1951年2月8日の、カプ・マルタンのロクとロブ(ヨシザカ曰く、連れ込み宿)の図面は右下に色鉛筆で彩色した外観パースのスケッチがあり、それがなかなか達者で驚いた。図面全体の鉛筆の描き方も力みが無く、スーッと描かれている。 また、同じ年の2月23日の、平和と免罪の教会堂(ラ・サント・ボーム)では、サインが隆で、その下に小さく1951.2.23と日本式の並びで描かれている。だが翌年になると慣れてきたのか、13 Fev 52 や 4 mars 52 とフランス式の並びになる。それと同時に図面の描き方がラフになり、親分のコルに似て来る。不思議なものだ。 対して、日記は読み難かった。(内容がではなく、字が) 私も悪字で読み難いと言われるが、ヨシザカの字も個性的で読み難い。 ただ、日記は手紙とは違って他の人に読ませるのが目的ではなく、備忘録的要素が強いので、自分だけが読めれば良いのだ。(帰国後、ヨシザカは「ル・コルビュジェ」という、コルについてきちんと書かれた最初の本を彰国社から出すが、その時、日記の果たした役割は大きかったろう) 初めてコルのアトリエに行った時のことや、マルセイユのユニテに行った時のことが簡潔に書かれている。 中でもおもしろかったのは、その日記に挟まれた菊竹さんの几帳面な字の手紙(ヨシザカが戦後第1回フランス政府給費留学生に選ばれ、渡仏する直前にヨシザカに宛てた物で、便箋は当時、菊竹さんが勤めていた竹中工務店のものだった)で、菊竹さんの初々しさと自信、そしてヨシザカに対する尊敬が感じられた。 二人に師事した私にとっては特別な思いのする手紙だった。 ヨシザカがコルのアトリエにいた1950年から52年の間にロンシャンの計画は始まる。 しかし、ヨシザカはロクとロブ、ジャウル邸、ナント・レゼのユニテの設計、マルセイユのユニテの現場監理に関わるが、ロンシャンには関わっていない。 だが、その設計過程を横目で見ながらウキウキしていたに違いない。 (私がコルの作品の中で何が一番好きか訊いた時、スイス学生会館とロンシャンの名を挙げた) W大の実測調査隊の学生にはさぞかし楽しい体験学習となったろう。 私も30年以上前にひょんなことからロンシャン村に3日間滞在することになり、毎日ロンシャンを観に行った。もちろん、大好きな建物だ。 ロンシャンからモダニズムは明らかに変容した。 その分岐点となった建物の調査結果をこれからも興味深く見守りたい。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2016-07-27 20:06
2016年 03月 31日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇18.これからの人へ 「みなでつくる方法─吉阪隆正+U研究室の建築」展の最終イベント(正確には翌日、会場でおこなわれた展示解説が最終イベント)として3月5日にギャラリートーク「吉阪隆正のことばから」がおこなわれ、マウントフジアーキテクツスタジオの原田麻魚と403architecture [dajiba]の辻琢磨の、若い二人の建築家が話をした。 これまでヨシザカ関連の展覧会で話をするのは身内ばかりで、新味に欠けていたが、身内外の、しかも若いこれからの二人がどんな話をするのか、とても興味津々だった。 マウントフジアーキテクツスタジオのことは以前から知っていた。 その不思議な事務所名と、つくるものに若者“らしさ”と今の時代“らしさ”を感じるので。 ただ、木を使った建物は良いのだが、コンクリートはもろにコンセプチュアルで、MVRDV的だったりして、一体彼らの出自は何なのだろうと思っていた。 だから原田麻魚が以前、象にいて、樋口さん経由でヨシザカとつながっていることを知って、半分わかったような、でもやっぱりわからないような気がした。 403architecture [dajiba]のことは(最近、建築雑誌をきちんと読んでいないので、)全く知らなかった。 彼らの仕事はリフォームが多く、建築の町医者のようで、作品のほとんどが浜松市内の歩いて行ける距離にあるのを今回知って、こういう人達が増えたらまちはどんどんおもしろくなるなと思った。
二人ともヨシザカの本をよく読んでいて、今回のトークに合せて印象に残る言葉と自分達の作品とを代わる代わるパワポで映しながら手際良く説明してくれた。展覧会慣れしている。 ヨシザカが亡くなったのは1980年の暮れだから、今から35年以上前になる。 当然、生前のヨシザカに原田麻魚(1976〜)や辻琢磨(1986〜)は会ったこともなければ、知る由もない。だからダメだというのではなく、だから羨ましいなと思う。 私はヨシザカの死や、その後勤めた事務所のボスである菊竹の死(2011)に出くわし、深く考えざるを得なかった。近くにいた分だけその影響から抜け出るのに時間と労力が必要になる。 その分、彼らは簡単にヨシザカを語れるし、場合によってはサンプリングの如く自由にヨシザカを駆使することもできる。だが、私にはできない。もっと重い荷物を抱えて立ち尽くすドン・キホーテかサンチョ・パンサのように、近づいて正確に語ろうとするか、できるだけ遠く離れて知らんぷりんするかのどちらかだ。 こういう事態を予見し、大竹十一さんがヨシザカの死後の座談会でヨシザカの意を汲み取りながらこう述べている。 「・・・ここで、大事なことは、各人が彼(ヨシザカ)の言葉なり、文章なり、行動なりで、本当に気に入ったことがあったとしたら、もうこれからは、それを彼から貰ったということは忘れることだ。それは必ずできる。それはもう自分のものなのだ。しっかり自分のものとして、自分の思ったように使ってゆけばよい。もとの形が変わってしまっても、一向にかまわない。その源が、吉阪隆正にあることを思い煩っている間は、けっして自分のものにはならないし、良い成長もしなければ、良い遺伝子にもけっしてなれないと思う。 彼の残したものは実にいっぱいある。そして大変にユニークなものばかりだ。これが全部、多種多様な人たちのなかに、少しずつでもその人のものとして新しく成長できたら、こんなに愉快なことはないし、それが結局は彼への何よりのお返しだと思う。ここに集まった者どもはもちろん皆堂々と自分の道を歩いて行くだろう、他の人たちも皆そうあってほしいよ。と同時に、何年かに一度位は、そのそれぞれに新しく成長した遺伝子を再会させたら、どんなことが起きるか、何か一つの問題に合同で取り組んでみる機会がつくれたら、これまた愉快な実験になると思うね。・・・」(建築文化8106号) さすが十一さんで、実にすてきな言葉だ。 この言葉にはまったくもって同感だ。 この言葉を若いこれからの人たちへ贈ると共に、もう一度私自身も噛みしめ、心に刻んで、もう少し前へ進みたいと思う。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2016-03-31 22:06
2016年 02月 26日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇17.松さんのこと 先週土曜日、八王子の大学セミナーハウスで、「みなでつくる方法─吉阪隆正+U研究室の建築」展のシンポジウム「ヴェネチア・ビエンナーレ日本館から大学セミナーハウスへ」があった。 私は風邪を引いていたが、大学セミナーハウスのその後が心配で見たかったのと、久しぶりに多くの先輩、仲間達と旧交を温めたかったので、事務所のH君を連れて雨の中、出かけた。 野猿峠に向うバスの中で先輩のUさんやYさんと出会い、バスを降りて話をしながら坂道を上った。昔は山里の中にあるとばかり思っていたセミナーハウスのすぐ下近くまでマンションや住宅が迫っていて、少し興醒めした。おまけに、移築された民家の遠来荘が無くなっていて、ガッカリした。だが、U研に入ったばかりのジュニアが担当した「目」は相変わらずそのままだった。それを見ながら迂回して本館に入り、そこからブリッジで渡って会場の講堂に行った。開始までまだ時間はあったが、既に人で一杯だった。幸運なことに前の方に席が空いてたので、そこに座り、開始を待った。定刻に始まり、SITEの斎藤さんの司会で鈴木絢さん、戸沼先生、象の富田さん、(昨晩タイから戻り、飛び入りの)樋口さんの順で懐かしい当時の話が再現されていった。 途中、どういうわけか私は咳が止まらなくなり往生したが、前にいたご夫人が「これを舐めたら」と言って柔らかい飴の包みをくれた。後で松さん(松崎義徳さん)の奥さんだと知った。松さんが亡くなってから14年が過ぎた今日、松さんの文章と多くの追悼文を合せた「今日は、よく歩いた。」が刊行され、みなでそれを手にした。 松さんと初めて会ったのは、大学院に入り、ジャンケンで負けて夜間の専門学校のTAになった時だ。その授業は1年間コンペと卒計をするだけという不思議な内容で、先生は松さんを始め、大竹ジュニア、丸欣さん、遠藤さん、先輩Hさんら、ヨシザカの息のかかった、今から思えば超豪華メンバーの人達で、その中で松さんは一番寡黙だった。その後、コンペの手伝いでU研に出入りするようになり、顔を合わせる機会はさらに増えたが、いつも考え事をしながら眠っているかのような寡黙な印象は変わらなかった。忍耐強い山男の風貌はさらにその印象を深めた。 だから建築知識78年8月号に掲載された「階段は意思、廊下・斜路は情緒、橋は夢…」という松さんの文章を初めて読んだ時は、長文で論理的でありながらどこか文学的で詩的な香りがあり、とても驚いた。(それは今回の本でも読める) 今回この本を読んで一番おもしろかったのは竹本忠夫さんのU研時代の話だ。 少し長いが引用する。 「栃木県立博物館設計コンペの中で、金太郎飴案(吉阪先生)で進んでいた計画案を何か納得いかないのか、何か不満があったのでしょうか、太いマジックインキで松崎さん独自の案を繰り返し繰り返し何かつぶやきながらエスキースをしていました。エスキース模型を作成し、毎夜松崎さんと吉阪先生スタッフ一同と粘り強くディスカッションしていてとうとう吉阪先生も音を上げられ、却下理由がおもしろくないとか、記念写真を撮る場所がないとかだった様に思います。最後には民主主義は疲れるとこぼしていたのを思い出します。独断専行で進んでいた計画に何かおかしいと思ったのでしょうか、対案を出し粘り強く松崎さん流の抗議の仕方、物を作る時の姿勢はこうだと今に思えば示されたように思います。」 光景が目に浮かぶようだ。さすがのヨシザカも松さんの粘りには根負けしたことだろう。 この本の最後は松さんの娘さんの肉親でしか感じえないすてきな言葉で終わる。 「父が亡くなってから、私の心の中に、父が『生まれた』。 何かを語りかけて来るわけでもないが、私と一体となりいつも一緒にいるように感じる。 父が宇宙と一体化し、包まれている感じとも言える。」 ![]() シンポジウムはほぼ定刻に終了した。私は残ってセミナーハウスに泊まり、みなと夜中まで語り合いたかったが、いかんせん風邪がそれを許してくれない。 富田さん、樋口さん、丸欣さんらレジェンド達に挨拶し、外に出た。 だいぶ暗くなっていたが、久しぶりにセミナーハウスの敷地を、H君の勉強がてらいろいろ説明しながら歩いた。 悲しいことに、あの馬蹄型に囲まれたユニット宿舎群は、一部をアーティスト用に貸し出し残すだけで、ほとんど跡形もなく消えていた。 これでは、凹凸の激しい自然の中で生活しながら学ぶ、という初心は誰にも伝わらない。 松さんが「橋は夢…」と言った、わざと揺れるように設計した「かや橋」もメンテナンスされずに閉鎖されている。そのため敷地内を自由に回遊できなくなり、とても不自由だ。 長期セミナー館の外壁もやはりメンテされずに痛々しい。 それに引き替え、交友館前には巨大なコンクリートの宿泊棟がボラー(鉄腕アトムの「史上最大のロボット」に出てくるのっぺらぼうのロボット)のように建っている。 便利さと怠惰が思想をどんどんダメにする。 だったら、身体を鍛えろ! でなければ、精神なんか鍛えられないだろ!! 私のこうした悲嘆と不満が、どこまで若いH君に通じたかはわからない。 ただ、松さんが担当者として心血を注いで残して行った建物群を見ながらどろんこになって自然の中を歩くことで、たぶん何かは通じただろう。 やはりヨシザカとU研の建築と思想を一番肌で感じられるのはこの建物群だ。 多くの人に来て、体感してもらえることを願って止まない。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska5
| 2016-02-26 19:17
2016年 01月 31日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇16.ブリコラージュ・デザイン・方法・組織 カサベラ・ジャパン監修者の親友のK君から「みなでつくる方法ー吉阪隆正+U研究室の建築」(@国立近現代建築資料館 会期は3/13(日)まで)の展覧会レポートを書けと年末言われた。 軽い気持ちで引き受け、どんな感じで書くのか過去のレポートを送ってもらい読んだ。 ギョ!である。 難しい漢字やカタカナがたくさんあって、読んでるうちに頭が痛くなった。 私は長らく論文のようなものは書いていない。というか、卒論と修論を書いて、この手の文章は私には無理だなと悟った。そして金輪際こういう文章とは無縁な、ひらがなの世界で生きようと心に決めた。 なのに、さすがはカサベラの血筋を引く雑誌だけあって、ジャパンの方も論客の文章ばかりだ。 後悔したが、引き受けたものはしょうがない。正月中、頭を抱えながら書いた。 * * *
国立近現代建築資料館で開催中の「みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築」展を観た。(会期は2015年12月3日(木)から2016年3月13日(日)まで。) 私は1980年3月に早稲田の大学院の吉阪研を修了し、その年の12月に吉阪は亡くなったので、大学だけでなく山や冬のスキー、アトリエのU研できちんと薫陶を受けた最後の学生ということになる。また、夜間の専門学校(現芸術学校)のTAを2年間したので、その校長でもあった吉阪と話をする機会は他の人より多かった。(もちろん、OB、OGとは比べものにならないが。) 吉阪が亡くなって以降の展覧会やシンポジウムはこれまでほとんど観聴きし、その多くを知っているつもりでいたが、今回の展覧会も初見の原図や新たな発見があり、おもしろかった。 会場は中央の《大学セミナー・ハウス》の巨大な油土の模型を取り囲むように、昨年U研から国立近現代建築資料館に寄贈された約8,500点の建築設計資料の中から選ばれたトレペの原図やスケッチがジャンル別年代別に並んでいる。 そして、入ってすぐの所に植田実さんの「住居」という文章のパネルがある。少し長いが引用する。 「吉阪隆正の自邸は、建築家がその先の時代を見据えた「人工土地」のコンセプトによっている、という以上に、コンクリートの土台をつくったところで金融公庫からの金が底をつき、「部屋のない土地」を1年間眺め暮らしたバラック住人の現実でできている。 そして鉄筋コンクリートのフレームに充填されたブロック、3枚重ねの煉瓦、腎臓形の窓、漢詩を刻んだパネル、窓でも壁でもない種々の開口部などは、どこかから手続きなしで見知らぬ境遇に移植されたテクスチャーである。(略) 《吉阪自邸》におけるテクスチャーは材質の特異性ではなく、時代の流れから離れた、自ら材料や部品を収集してつくるブリコラージュの、解読しにくい謎の姿勢である。それは自邸に前後するいくつかの初期住宅から《浦邸》《ヴィラ・クゥクゥ》、晩年の住宅にまで等しく表れ、謎は衰えることがなかった。それを吉阪の少年時代の特別な生活環境、戦後初期のル・コルビュジェのアトリエでの経験、本格的なアルピニストであること、あるいはいっそ吉阪生来の個性と簡単に説明すればなおさらに、小さな住居のなかの大きな世界は遠去かる。(略)」 吉阪+U研の住宅をブリコラージュとは言い得て妙で、さすが植田実は慧眼の持ち主だと改めて感心する。 彼らが活躍する50年代から70年代はCadやパソコンが登場する以前で、すべてが手仕事として成立した。当然ながらその思考や作業は圧倒的な身体性を備えている。特に吉阪+U研は山岳部出身者が多く、体育会系というか、身体を使って考え、それを原寸に起こし、模型で確かめ、試行錯誤を繰り返しながら設計を進めていった。 また、吉阪を含め、異なる個性の集団(寄せ集まり)で、その個性をそれぞれが出し合うことで新しいものを創り出していった。 植田さんの文章の後半には、実は身体性にまつわる指摘もあるが、ブリコラージュという概念には元から身体性も内包されているので、ここではそれも含め、識者によって提示された、吉阪+U研とブリコラージュの関係をさらに深く考えてみたい。 植田さんは住宅のデザインを指してブリコラージュと言ったが、《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》《海星学園》《呉羽中学校》《日仏会館》《アテネ・フランセ》など、他のすべての建物のデザインでもそれは当てはまる。 一筋縄ではいかないデザイン(植田さんの言う「解読しにくい謎」)のために、吉阪+U研のデザイン評はとかく表面的な印象批評になり勝ちで、「毛深い建築」とか、吉阪の来歴から、粗野で洗練さの欠けたコルビュジェのように語られることが多い。 確かに建物の形は純粋な立方体や直方体ではなく、どこか歪な形をしている。しかもそれを楽しんでる風な所があり、さらにそれを強調する癖がある。 内外にてんでにころがる個々のデザインも皆個性的で、へんてこりんで、だがきちんと見ると魅力的だ。 なぜ彼らはこんなことをするのだろう? U研を取りまとめていた大竹十一さんに私が以前、菊竹自邸の《スカイハウス》('58)と《浦邸》('56)は似ているという話をした時、「《スカイハウス》は1でできているが、《浦邸》は2でできている。1は単純過ぎておもしろくないから、僕らはやらない」とあっさり言われた。その時の話の文脈からすると、1とか2は建物の数と同時に、内部の生活の成り立ちと交わり方を指している。 つまり、吉阪+U研が目指したものは、生活を単純化してデザインを洗練されたものにすることではなく、むしろそれとは逆の、そこでおこなわれる種々の生活を受け入れてそのかたちを探し出すこと、そして(ユーモアを交えながら)それをさらに個性化することだった。その結果がブリコラージュのデザインだ。 《吉阪自邸》にしても、コルビュジェの事務所にいた頃の吉阪の最初の案はもっとスマートだ。(今回の展覧会場でそれは見られる。) それが資金難で「部屋のない土地」を1年間眺め暮らし、バラック住人のいろいろな生活への思いや視点が加わることでブリコラージュのデザインになった。建築は早くつくるだけが能ではない。 また、設計にかける時間と現場に入ってからの時間はほぼ同じだったと十一さんは言った。もっと良くならないか、もっと良くならないかと粘りながら図面を描き続け、変更を加えた。その結果、ブリコラージュのデザインはさらに拡大した。 では、どのような方法でそれをデザインしたのだろう。 これも十一さんから聞いた話だが、U研ではあらゆる建物のデザインをみんなでディスカッションしながら決めていた。しかも、年齢、経歴は一切関係なく、発言は平等だった。けしてコルビュジェのようなトップダウンのやり方ではなく、集団による設計だった。(実際、大学教授でもあり、興味が多岐に渡って国内外を常に飛び回っていた吉阪が、すべてに細かな指示をすることなど不可能だったろう。) ディスカッションの場では一つだけルールがあり、出された案、アイデアに対しては代案を出して意見を言い、批判だけするのはやめる、というものだった。吉阪といえど、そのピースの一つだった。(吉阪研での経験から、それはきっと巨大なマグマのようにいつも議論をひっくり返して原点に立ち戻らせる、とてつもなく面倒くさい、だが大事なピースだったろう。) つまり、設計方法もブリコラージュだった。 ディスカッションで決まったことを図面化し、現場でさらに工夫して監理するのは十一さんと他のメンバーの仕事だが、それを外部へ発信するのは、魅力的な言葉を生み出す天才でもある吉阪の仕事だった。 この展覧会のタイトルである「みなでつくる方法」はブリコラージュと言い換えることもできる。 吉阪はコルビュジェの事務所から戻った1953年早稲田大学構内に吉阪研究室を設立し、設計活動を始める。そして翌54年、武基雄研究室にいた十一さんを《浦邸》の設計に誘い、本格的にスタートさせる。 「・・・(大竹が)吉阪から声をかけられたのはそんな時である。その後、文京区役所に勤めながら吉阪自邸の監理を手伝っていた城内哲彦、大学院在学中の滝沢健児、そして、自邸を手伝いながら卒論をまとめていた学部三年生の松崎義徳。それまでバラバラに吉阪の仕事を手伝っていた三人が次々と浦邸の設計に参加した。まったく似たところの無い五人のメンバーであった。」(「吉阪隆正の方法 浦邸1956」斎藤祐子) つまり、吉阪+U研という組織の始まりもブリコラージュだった。 当時のメンバーには岡村昇、山口堅三、渡邊洋治もいる。59年に鈴木恂が加わり、61年には大学構内を離れて百人町の自邸敷地内に移り、64年に名称をU研究室に改称する。この年を挟んで、前年に富田玲子、同年に大竹康市、翌年に樋口裕康の、後に象設計集団をつくる3人が加わる。そして数々の名作、話題作をつくっていく。 私は吉阪研時代、U研のコンペを手伝いによく行ったが、コンペだったせいか、U研には時間に始まりが無い感じで、いつも皆三々五々集まり、夜遅くまで作業するのだが、帰るのも皆バラバラだった。 もちろん、吉阪が現れるのはもっと不規則で、夜中だったり、早朝だったりした。 超多忙で、国内外へ出かけてばかりいた吉阪にとって、大竹十一という柔軟な生涯に渡る名パートナーがいなければ、その設計活動は成り立たなかったろう。 吉阪は1957年のブラジル・サンパウロ・ビエンナーレ・コンペの作品を学生と共に徹夜で仕上げている最中に、デザイン論や方法論、組織論を束ね合せて「不連続統一体」という魅力的な言葉を生み出すが、これも大きな意味で、ブリコラージュと捉えることができる。 吉阪+U研はデザイン・方法・組織において常にブリコラージュを実践し、展開した。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 会場を観て回るうちにある図面に目が留まった。《生駒山宇宙科学館》('68)の立面図だ。その次の壁に《箱根国際観光センター》のコンペ案('70)の立面図がある。 この展示を観るまでは、箱根はコルビュジェのブラジリアのフランス大使館の事務棟の丸いプランから来ているのだろうとばかり思っていたが、生駒山→箱根とスムーズにつながっていることを初めて知った。そして生駒山が改めて凄い建物だと感じた。 これだから、展覧会は行って観なければわからない。 ぜひ観て、その場で感じ考えることを勧めたい。 (吉阪の言葉に直接触れたい方は、昨年秋に出版された「好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話」を勧める。) かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2016-01-31 13:55
2015年 12月 12日
![]() 拾遺篇15.みなでつくる方法 国立近現代建築資料館で12月3日(木)から開催する「みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築」展のプレオープンに事務所のH君を連れて行った。 定刻前についたが会場は既に満杯で、懐かしい先輩、後輩、知人達と談笑しながら図面やスケッチ、模型などを観た。(分散して保管されてた《大学セミナー・ハウス》の巨大な油土の模型もこの展覧会のために集められ、補修されて中央に展示されていた) 聞くと、この展覧会は昨年U研から国立近現代建築資料館に寄贈された約8,500点の建築設計資料の中から選ばれたトレペの原図、スケッチ、資料類で構成されているらしい。 (私を含め)吉阪+U研の資料散逸を心配していた人達は皆安堵していた。 入ってすぐの所に植田実さんの「住居」という文章のパネルがあった。吉阪+U研の住宅を「ブリコラージュ」と捉える植田さんらしい見方と切口の文章で、さすがだなと思った。 原図の多くはこれまで見たことのあるものだが、初見のものもいくつかあり、興味深く観た。特に私にとっておもしろかったのは《生駒山宇宙科学館》('68)の図面で、その立面図が《箱根国際観光センター》のコンペ案('70)の立面図と並んであった。ハッとした。両者がつながっていることに初めて気づいた。(それまでは箱根はコルビュジェのブラジリアのフランス大使館の事務棟の丸いプランから来ているのだとばかり思っていた) 生駒山は大きなハトか何かのようだが、どこかロンシャンと似ている。というか、ロンシャンを意識して設計した風な所がある。図面を観ててそう思った。 その後、みんなで中央の巨大な油土模型の所に集まって写真を撮り、散会した。 だが、もちろん、吉阪+U研の集まりがこれで終わるわけがない。 久しぶりに会う伊那谷のS君や旧友達と1次会、2次会・・・と続き、夜遅く本当に散会した。 ![]() それから数日後、アテネ・フランセで「吉阪隆正+U研究室による集団設計」というシンポジウムが開かれた。 出演:藤森照信、重村力、伊勢崎賢治(I)、司会:中谷礼仁という顔ぶれで、I君以外は建築関係者なので話が噛み合っていたが、I君は(吉阪研出身だが)平和構築、紛争予防の専門家なのであまり噛み合なかった。いっそのことI君の土俵にのって「ヨシザカと平和」くらいのテーマでやれば、普通のシンポとは異なる新たな見方と切口が生まれたかもしれない。 (ついでに言えば、I君にジャズを教えたのも、その後インドのスラム街に住む切っ掛けとなったバラックに連れて行ったのも、先輩の私である。昔から血の気は人の10倍くらい多く、猪突猛進の性格と物言いは未だ変わらない) シンポの後、親友のPに久しぶりに会い、アテネ・フランセを一緒に探検した。 その後、お茶の水でビールを飲み、別れた。 多くのことを共有できる友との再会は人生の喜びである。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-12-12 13:41
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