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2015年 11月 30日
拾遺篇14.ル・コルビュジェ×日本 国立近現代建築資料館で開催中の展覧会「ル・コルビュジェ×日本 国立西洋美術館を建てた3人の弟子を中心に」の最終日に滑り込み、観た。 私には悪い癖があって、気になる展覧会でも初日や始めの頃に観に行くことはまずない。良くて中日か、悪いと最終日に駆け込む羽目になる。 だが、こうした悪癖を持つのは私だけでなく、特に建築家には多い。だから建築の展覧会の最終日に行くと、必ず誰か知り合いに会うことになる。 Mさんに会った。Mさんは吉阪研の1年先輩だが(彼は現役、私は一浪なので)同い年で昔から気心が知れ、よく酒を飲み、語り合った。いきなり、 「あ〜、俺のデ〜キレ〜な奴に会ってしまった。今日は来るんじゃなかった!」 と来た。いつもの台詞だ。 で、閉館までじっくり観てロビーに降りるとまだMさんがいる。 「俺は今日は暇じゃね〜んだけど、まぁ、30分くらい飲むか!」 (根津の「はんてい」まで歩くのはかったるかったので)湯島で飲んだ。 30分のはずが気がつけば3時間くらい経ってる。 地下鉄に乗って話し込みながら乗換えの表参道まで来た時、 「あと30分くらい俺は大丈夫だ。お前、いいとこ知ってる?」と来た。 結局、終電ギリギリまで表参道で飲んで別れた。 どこがデ〜キレ〜なんだよ!?!?!?!?!? 本題に戻ろう。 この展覧会は、前川、坂倉、吉阪の3人の弟子だけでなく、丹下を始めとする多くの日本の建築家に影響を与えたコルビュジェとその関係を残された図面で辿ろうという意欲的なものだ。(だが、せんだいメディアテークのチューブをドミノシステムから来ているという説明はさすがにこじつけの感がある) 私の関心はむろんヨシザカにある。 だが、前川國男と坂倉準三の、コルビュジェから受けた影響とそれを日本ライズした図面もなかなかおもしろい。しかもトレペの原図からダイレクトに匂い立ってくるので、観ていて飽きることがない。丹下健三のヒロシマ・ピースセンターもそうだ。 コルビュジェの西洋美術館の計画案はコルビュジェ全集第6巻に出てくるが、その基本計画ポートフォリオ全27枚は初めて見た。15枚の模型写真に始まり、次に図面、パースのスケッチが並び、設計の喜びや楽しみが素直に伝わってくる。とても好きだ。 お目当てのヨシザカの図面では、コルビュジェの事務所にいた頃の「吉阪自邸」('55)の初期案('53)が初見でおもしろかった、というか驚いた。 最初の案はとてもスマートで、コルビュジェの影響を強く感じさせる。だが、実際に完成した自邸はもっといろんなものが混ざり、不透明で、へんてこりんだ。 図面の解説には「吉阪がパリ滞在時から構想していた住宅。資金が足りず、当初はコンクリートの床と柱のみが建ち、後に壁が設けられたという。その原型は、ル・コルビュジェが提唱した《ドミノ型住宅》(1914)の強い影響がうかがえる。」とある。 資金が足りず、スケルトンを眺めているうちに、コルビュジェとは異なるヨシザカ本来の部分が大きくなっていったのだろうか。 いずれにせよ、興味深い初期案だ。 その他、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館('56)のアクソメ図もおもしろかった。 次回は「みなでつくる方法ー吉阪隆正+U研究室の建築」展だ。 ヨシザカとU研の図面がもっと観れる。 もちろん必ず観に行く。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-11-30 20:20
2015年 10月 31日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇13.有形学 久しぶりに「生活とかたち」(有形学)を読んだ。 この本はテレビ大学講座「生活とかたち」のテキストとして1980年に出版されたもので、その年の暮れにヨシザカは亡くなるから、生前最後の著作にあたる。 丁度、研究室を出て菊竹事務所に入る頃だったので、慌ただしい中、拾い読みしたが、きちんとではなかったのでずっと気になってた。それをもう一度読もうと思ったのは、数ヶ月前に出版された「好きなことはやらずにはいられない」の中に引用がいくつかあり、再び気になったからだ。 だが、本は見当たらず(たぶん、誰かに貸してそのままになったのだろう)、しょうがないので吉阪隆正集13「有形学へ」に収録されているのを読んだ。 (つづく) Odyssey of Iska 150-0001 渋谷区神宮前2-6-6-704 tel. 03-5785-1671 fax.03-5785-1672 odyssey@kkf.biglobe.ne.jp http://www7a.biglobe.ne.jp/~odysseyofiska/ #
by odyssey-of-iska5
| 2015-10-31 12:14
2015年 09月 29日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇12.U研 象 モビル 鰐・・・ U研や象に出入りするようになったのは大学院で吉阪研に入ってからだ。 初めてU研に行った、というか吉阪自邸に行ったのは、ヨシザカがハーバードの客員教授から戻って来て、彼の等身大の写真を神戸大へ去るSさんの希望で撮りに行った時だ。(あの「乾燥なめくじ」の表紙になった写真だ) 百人町の細い道を歩いていると、突然、ポケットパークのような小さな竹薮のある広場に出て、それを囲むように、正面に自邸、左側に書庫兼書斎、右側にU研があった。 (その時は竹薮をバックに、お気に入りの張り子の虎と共に撮った) それからコンペの度にヨシザカから声をかけられ、よくU研に手伝いに行くようになった。 (ヨシザカが亡くなり、自邸が壊され、U研が北新宿に移ってからも時々行った) コンペの時だったせいか、U研には始まりの時間というものが無いような感じで、いつも皆三々五々集まり、夜遅くまで作業するのだが、帰るのも皆バラバラだった。不連続統一体を地でいってるような感じだった。 もちろん、ヨシザカが現れるのは超不規則で、夜中だったり、早朝だったりした。 ヨシザカは国内だけでなく外国へもしょっちゅう出かけていたから、大竹十一さんという柔軟な生涯に渡る名パートナーがいなければ、その建築活動は成り立たなかったろう。 U研のやり方は集団合議制だった。ヨシザカといえど、そのピースの一つだった。アイデアを出さない奴は意見を言う資格がないというルールで、延々と議論しながら決めっていった(と大竹さんから直々に聞いた)。 また、U研の歴代の面々が集まった会で聞いた話だが、設計にかける時間と現場に入ってからの時間はほぼ同じだったらしい。つまり、現場に入ってからも、もっと良くならないか、もっと良くならないかと粘りながら図面を描き続けた。だから完成した物はただのコンクリートの塊ではなく、血肉化し、人間化している。 象(正確には象設計集団)はそのU研から、大竹康市、樋口裕康、富田玲子が独立してつくった設計事務所で、三人の頭文字を組み合わせてTHO(ゾ)→ゾウ→象となったという逸話を聞いたことがあるが、真偽は定かではない。 象を初めて知ったのは「別冊・都市住宅1975秋」の住宅第11集で(学部の2年生だった)、そこに出ている「ドーモ・セラカント」や「ドーモ・アラベスカ」を見て、木造でもこんなグニャグニャなことができるんだ!と驚いた。 大学院に入り2年間夜間の専門学校のTAをしたが、その講師に象のジュニア(大竹康市)がいたため、自然と象に出入りするようになった。(ジュニアの他にも、U研の松崎さん、アトリエ・モビルの丸欣さん、エンドウ・プランニングの遠藤さん、吉阪研の先輩の鰐のHさんなど、講師は豪華メンバーだった) 象の事務所は私の大学時代は早稲田の理工社(建築関係の用具や模型材料を扱ってた)の裏の丘の上にあったが、実際出入りするようになった頃は歌舞伎町の裏にあった。だから、名護市庁舎のコンペを手伝ってた頃はよくオカマに声を掛けられた。 その後、象は中落合の民家を経て東中野の民家(とても良い所だった!)で、高野ランドスケープと同居しながら夜な夜なパーティで騒ぎを起こし、110番通報を食らった。(その一つに私も同席する羽目になった) 1990年に十勝の中学校の廃校に移ったが、その最後の打上げの夜のパーティーで来たパトカーの警察官が「これで最後になるのがお名残惜しい」と笑いながら言ったのが昨日のことのように思い出される。 その後、象は十勝に移ると共に、十勝や台湾、パリ郊外でも幅広い仕事を展開して行く。建築メディアからは誤解され干されたが、その仕事ぶりは極めて充実している。(その辺の所は「空間に恋して~象設計集団のいろはカルタ」(2004)に詳しい。これを見ると、象がU研の後継者で、その意思を継いでることがよくわかる) アトリエ・モビルの丸欣さんにもよく鍛えられた。 「みぞぶち君、キミは少しもわかっていない!」と、会うと必ずジャブが飛んで来る。「最近の若い人は、すぐに知ったかぶりをする」と、追撃のフックも見舞ってくる。そしてトドメは「だからワセダの学生さんはイヤだ、イヤだ」と取り付く島もない。 丸欣さんだけでなく象のジュニアや樋口さんもそうで、要するに象関係者は反語的愛情表現が過多で、相撲部屋の先輩力士が新米をカワイがるように、時には度が過ぎる言葉を浴びせて来るが、皆これ、社会に出た時に慌てないように、との愛情の発露なのだ。 丸欣さんは絵が上手で、いつも分厚い本のようなスケッチブックを持ち歩き、暇さえあればスケッチをしている。この分厚いスケッチブックには旅先で出会った人の似顔絵や毎日の由なし事、自分の手術の図解やメモも貼られ、乱雑かつ猥雑で、転々バラバラだが迫力十分だ。 その丸欣さんから大きなパースを描く術を教わったことがある。それは名護市庁舎のコンペの2次の時で、提出の前々日くらいだったと思う。夜中にやって来て、やにわに小さな紙に、丸欣さんにしては珍しく定規を使って鉛筆できちんと描いた。それをコピー機でA3に引き伸ばし、さらに筆ペンで手を加えた。それをCHでさらに引き伸ばし、今度は筆で手を加えた。 なるほど!こうすれば簡単に大きな味のあるパースは描けるのだ。 以後このやり方を私も真似するようになった。 モビルは、私の大学時代は文学部の裏にあったが、やがて江戸川橋の同潤会に移った。 (丸欣さんはここの別棟にご両親の代から住んでいた) 丸欣さんに会いに初めて同潤会に行って、その中庭を見た時の驚きは今でも忘れられない。それは花咲き乱れる桃源郷だった!(この辺りのことは、当時のモビルの所員で絵本作家の青山邦彦の「こびとのまち」に詳しい) 鰐のHさんにも鍛えられた。(だいたいHさんが吉阪研に電話を掛けてきて、TAになってなければ、私も今頃はもっとマトモな人生を歩んでいたに違いない) Hさんは吉阪研時代は沖縄で方言と地名の研究をし(その成果は都市住宅7508「発見的方法」の「方言地名」に詳しい)、そのまま象に入って設計ではなく計画系の仕事をいくつかした後独立し、鰐をつくった。(象出身者は独立後もアトリエ名に動物、もしくはそれに近い名前をつける。そしてTeam Zoo(「動物園」?!)を形成する) Hさんは丁度私の兄と同じ団塊の世代で、専門学校の授業が終わった後もよく飲みに連れていってくれ、いろんなことを教えてくれた。そして形式的な理論より現実的で直截的な実践の大切さを私に叩き込むように教えてくれた。 忘れられない思い出がある。私が独立して間もない頃、都幾川村の仕事に誘ってくれた時のことだ。 何回か現地での会合を終えた後、報告書をつくる段階になり、鰐で打ち合わせをした。 HさんはA3の白い紙をやにわに取り出し、これまでの経緯を私に図と文字で説明しながらどんどん書き連ねて行った。そしてそれはいつしか報告書の目次となっていった。その間、隣に置いてある資料や写真には目もくれず、ひたすら私との会話に集中しながら、30分程でそれを成した。そしてできた目次には余分なものは何も無かった。 そのストイックなくらい現実的で直截的なやり方を直近に見て、私は如何に自分が形式的な人間になっているかを知り、多いに恥じた。それは昨日のことのように今でも思い出される。 Hさんが中心となり成した本に「図集 集会所づくり」(農村開発企画委員会)がある。 その目次は7つの章立てと42の細目から成る。最初の章を見ると、 ◯まず、みんなの気持ちをあわせる ・みんなでつくろう ・手順をしっかりたてよう ・建設委員会をつくる ・むらの知恵と専門家の知識 ・資金作りを考える ・建設設計のすすめかた と、平明なことばで書かれている。その後の章だけを見ても、 ◯時間をかけて集会所づくりに取り組む ◯どんな建物にしようか ◯農村らしいかたちのデザイン ◯むらの新しい生活のかたちをもとめて ◯親しみやすい集会所 ◯むらづくりにつなげる と、名詞ではなく動詞の、呼びかけるようなことばで多くは書かれている。そしてHさんらしいヘタウマのイラストが続く。 これは農村の集会所だけでなくどんな建物をつくる時でも大切なことが子どもにもわかるように書かれた名著で、私は自分が形式的になってるなと思う度に今でもよく手にする。 その他、龍、熊、とど・・・と書いていったらキリがないので、この辺でやめる。 いずれにせよ、こうした先輩たちに鍛えられながら、私はマトモな人生からどんどん離れて別の人生を歩むようになった。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-09-29 19:58
2015年 08月 31日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇11.好きなことはやらずにはいられない 映画「ルンタ」の公開に合せて吉阪研の後輩のNが来日し、彼を囲む会が2回あった。 1回目はY君が主催する勉強会AVENUEで。 2回目はSITEの斎藤さんが主催する会で、場所は象設計集団の初期の名作「ドーモ・アラベスカ」だった。アラベスカに行くのは久しぶりで、楽しみにして行ったら、講演の後、斎藤さんから刷り上がったばかりのヨシザカの本を手渡された。(というか、買わされた。もちろん、喜んで買った) 翌日は休みだったので、久しぶりにヨシザカの言葉に触れながら一日を過ごした。 この本「好きなことはやらずにはいられないー吉阪隆正との対話」は、これまでヨシザカが語ったキーワードとなる言葉を(それに関係する弟子の言葉や、さりげなく今和次郎のスケッチやコルビュジェの言葉も集めて)編集されたもので、絵と写真がふんだんで、象の樋口さんのイントロと末尾の斎藤さんのわかりやすい解説付きで、あっという間に読み終えることができる。 「吉阪隆正集」全17巻を読むのはとても大変だが、これだと一日でヨシザカを知った気分になれる。(あくまでも”気分”だけだが・・・) 判型は新書判で、ジーパンのポケットに入れてどこへでもヨシザカを連れて行けるし、どこでも彼の言葉を読み、対話することができる。 全集の編集時に樋口さんの言ったコンセプトが30年以上かけてやっと実現した。 好きな言葉はたくさんある。たとえば、 雨が降って来た バナナの葉を一枚もいで頭にかざした 雨のかからない空間ができた バナナの葉は水にぬれて緑にさえている パラパラと雨のあたる音がひびく この光とこの音の下に居る者は雨には当たらない この葉をさして歩くと葉先がゆれる ゆれるたびにトトトと葉の上の水が落ちる 相当な雨らしい 新しい空間とは、こんな風にしてできるのだ。(略)葉っぱは傘になり、傘は屋根になり、屋根は住居になって、それからまた、諸々の公共の場所にもなっていった。 こんなのもいい。 ・・・人間の肉体は、平均して六、七十年間、補給をしながらではあるが、生命として燃焼しつづけるエネルギーをもっている。そのエネルギーを、積極的に物をつくる時には惜し気もなく注ぎ込む。その意味からすれば、物をつくるとはその物に生命を移すことだともいえる。私たちが物の形を通じてその奥にあるものを知り感動を受けるのは、注ぎ込まれた生命の多さによるのだろうか。 中には福島の現状を見越していたかのような、ドキッとする言葉もある。 ・・・さまざまなシステムの網目がいっぱい張りめぐらされていて、それにのっかって生活が成り立っている。そのシステムがほとんど人工的につくられたものだし、人工的に維持されているものだ。あらゆる計画がそれを前提に進められている。そのために豊かさを満喫しているのだが、それを維持するために消費している何かがあるにちがいない。それが切れた時、一切は止まる。止まった時、人びとは生きる方法を見失って亡びるだろう。 原子力の廃棄物を、どう始末するのだ。自然界はもっともっと厳しい、人間にいわせると厳しい世界なのだ。情無用なのだ。 この本のタイトルになった言葉は1980年(ヨシザカが亡くなった年だ!)のエコノミックジャーナルに出ているそうだ。 「やらずにはいられない」と「やらざるをえない」とでは、雲泥の差があります。 私は自分の携わる建築学が手放しで好きなのです。 俗に、寝食を忘れるといいますが、人間好きなことに打ち込んでいるとき、 最も充実感を味わうのではないでしょうか。 真に同感だ。ヨシザカは最後までこういう気持ちで建築と接していたのだ。 だから弟子である私はその意思を受け継ぎ弘めなければならない。 弟子でない人にも(できることなら多くの若い人に)読んでもらいたい。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-08-31 22:06
2015年 07月 30日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇10.詩 Le soleil a rendez-vous avec la lune la lune est là la lune est là mais le soleil ne la voit pas il faut la nuit pour qu'il la voit 太陽は月と会う約束です 月はそこにいます 月はそこにいます けれども太陽には見えません 夜でなければ見えないのです タゴールの詩集「ギーターンジャリ」を読んでいる。 それは吉阪家の墓のフランス語で書かれた碑文がタゴールの詩から来ていると聞いたからだ。だが、それらしい詩はなかなか見当たらない。(もしかしたら「ギーターンジャリ」からの引用ではないのかもしれない) 丸善から出ている「DISCONT 不連続統一体 吉阪隆正+U研究室」は貴重な写真がいっぱいで見ていて楽しいが、中でも1959年に墓の前で生乾きのコンクリートの型枠を外してヨシザカと篠田桃紅さんが下描きの線の具合を見ている写真は格別おもしろい。 たぶんこの直後に桃紅さんが鉄筋か何かを使って一気に描いたのだが、見る度に何かを感じさせてくれる鋭い描線で、とても好きだ。 タゴールは彼の母国語であるインドのベンガル語で詩を書き、それをヨーロッパ人にもわかるよう英語に翻訳したが、ヨシザカはさらにフランス語に訳し、私達はそれを日本語で理解する。 二重、三重の手続きを経ているから、原語の音感や質感は変わっているはずだが、内容は現世と黄泉の国の物語で理解できるし、お墓の碑文としてなるほどなと思う。 ただ、最初に見た時はその意味がわからず、解き明かす努力をしていくうちに自然と何かを感じるしかけとなっている。 これと似たようなことは禅宗の尊者のつくった詩文でも経験した。 吉阪自邸のピロティの階段を上った所には20文字から成る漢詩がかかっていて、行く度にその意味がわからず頭を悩ませた。(原文のまま。右から下に読む) 無 隋 轉 心 喜 流 處 随 亦 認 實 萬 無 得 能 境 憂 性 幽 轉 どうやらこういう意味のようだ。 心は万境にしたがいて転じ 転ずるところまことによく幽(しずか)なり 流れにしたがえば性(物の自然の姿)を得ることを認め 喜びも無くまた憂いも無し 万物は移ろい行くものだと悟ってそのように対処していれば、むやみに喜ぶことも憂うこともなくなる、という意味だが、この禅宗独特の諦観的なニュアンスが不満だったらしく、ヨシザカは玄関脇にさらに西洋の格言も加えた。 「AUDOCES FORTUNA JUVAT」(大胆なれば幸運を掴む) いずれも最初は意味がまったくわからず、???だ。 また、意味がわかっても、しばらくは、‥‥‥だ。 そのうち、こうした「からくり」の醸し出す雰囲気が段々気持ちよくなり、染まって行くから不思議だ。 ヨシザカはこういうイタズラが好きでよくした。 もちろん、それは教養をひけらかすのが目的ではない。ラテン語やフランス語や中国の漢詩などにパラレルに接することで、日本語のベタベタした感触から自由になり、自由な思考、自由な感じ方をしたかったのだろう。 ヨシザカは生来、詩人だった。 それは彼の独特なネーミングの上手さや(論理的というよりは)直感的に垂直に落ちて来る言葉、断定的なもの言いの文章によく表れているが、それだけでなく研究室会議での会話でも飛躍に満ちた言葉をよく聞いた。彼の言葉はいつもスキップしていた。 私はコルビュジェの翻訳本ではヨシザカの訳したものが一番好きだ。 ヨシザカの訳は意訳が多くて正確さを欠くという言葉をよく聞くが、コルビュジェの本でコルビュジェがしゃべっているように感じられるのは唯一ヨシザカの訳だけだ。他の人の訳では、あの直裁で男性的なコルビュジェ像は伝わって来ない。 コルのアトリエで働き、身近に接した者だからこそ感じられるニュアンスや雰囲気が一番よく出ていると思う。 ヨシザカの言葉には匂いがある。 それは消えても永遠に変わらないものである。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-07-30 20:52
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