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2015年 05月 18日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇9.発想法 以前、久しぶりに長崎に戻って、海星学園('58)を観て驚いた思い出がある。 竣工してから40年近く経ち、メンテはあまり良くなかったが、崖からにゅいっと顔を出した荒々しいフォルムは独特で、コンセプトだけが透き通って見えた。 6階建てだが、一番上の階は高い方の台地と結びつき、一番下の階は低い方の台地と結びついている。つまり、建物で上下の台地を結びつけ、行き交うことができる。 また、グラウンドと反対側にある廊下は各階で直接斜面とつながり、避難できるようになっている。 普通の学校建築は平らな部分に建物をつくり、斜面はそのままうっちゃってる。だが、この建物はその逆だ。長崎で、特にこの海星学園がある東山手のオランダ坂辺りで平らな土地は貴重だ。できることならそこは運動用のグラウンドに残したい。そういう思いからこういう発想が生まれ、斜面と建物の密着した建築が生まれたのだろうが、こんなにコンセプトがストレートにデザインと直結した建築を観るのは(今ならコールハースの影響でよく見るが)あまり見たことがなかったので驚いた。 ただ、今の時代にエレベーターも無しにこんなことをしたら、やれバリアフリーだなんだと言って必ずブーイングを受けるだろう。 同じくヨシザカとU研が設計した学校で、北田英二さんが撮った写真を見て驚いたことがある。富山に10年前まであった呉羽中学校('60〜'63)だ。 生徒達が中庭を囲むように各階で並んだ光景は壮観で、屋根のない劇場のようだ。 これは真ん中にホールと階段とトイレ、その周りに3つの学級が合わさったテトラポットのような平面の普通教室棟が1単位となり、それが3つ合わさって一つの中庭をつくり、さらにブーメランのような形の特別教室棟が2つ合わさってもう一つの中庭をつくり、結果的にひょうたん型の中庭ができている。 不整形この上ない形で、しかも全体的にピロティで浮いている、ハンス・シャロウンもびっくりの学校だが、一体この発想はどこから来ているのだろう? ヨシザカは形の話より集まり方の話を最初によくしていた。 最小単位はこれくらいで、それがこれくらい集まって一まとまりができ、さらに集まって全体ができる、という風に。 この富山の中学校でも、八王子の大学セミナーハウスと同じように最初にそういう議論がなされ、次にその集合の形の議論がなされ、中庭が形成されていったのだろう。 しかも4期に渡り建てて行ったので、最後にできた特別教室は他とは違っている。 一度につくられた町は単調だが、長い年月をかけてできた街は変化に富んでいるのと同じで、臨機応変な工夫がいろんな所に感じられ、おもしろい。 だが、そうは言ってもやはり不思議な形で、こういう形の生まれるバックグラウンドが知りたくなる。 ハンス・シャロウンの先生にフーゴー・ヘーリングがいる。 ヘーリングは建築のデザインの過程を2つに分けて、前半を「機能を見つけ出す作業(オルガン・ヴェルク)」、後半を「形を見つけ出す作業(ゲシュタルト・ヴェルク)」とし、2つは互いに関係し移行すると考えた。 だが、より実作者である弟子のシャロウンは、移行する時もあれば、そう上手くは行かない時もあると考えた。つまり後半のゲシュタルト・ヴェルクの独立性や重要性を強く感じ、スムーズに移行するようその研鑽に勤しんだ。 ヨシザカやU研の場合もこのゲシュタルト・ヴェルクがユニークでおもしろいから他と違っておもしろいのだ。 それは本能か、生理か、哲学か、感情か、修行か、座禅か、はたまた手の訓練か・・・ いずれにせよ、周りと同じは嫌だ、自分達は自分達でいたい、長い物には巻かれたくない、個のアイデンティティをきちんとしたい、自由でいたい・・・そういう願いとプライドをひしひしと感じる。 その気持ちと根性は少しは私も受け継いでいる。 かずま Odyssey of Iska 150-0001 渋谷区神宮前2-6-6-704 tel. 03-5785-1671 fax.03-5785-1672 odyssey@kkf.biglobe.ne.jp http://www7a.biglobe.ne.jp/~odysseyofiska/ #
by odyssey-of-iska5
| 2015-05-18 19:38
2015年 04月 28日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇8.Humor 現代日本建築家全集(三一書房)の第15巻(どういうわけかヨシザカと芦原義信という、ほとんど正反対の建築家がカップリングされている)を学生時代に初めて見た時のことだ。 ヨシザカとU研の作品はどれも少し変で、変わっていて、不思議なおかしみがあるが、中でも一見普通の住宅に見えて、だが見れば見るほど変だなと思った住宅の写真がある。 赤星邸('63)の居間だ。 この住宅はRC造の2階建てで、1階は玄関と女中室で、ほとんどの部屋が2階にある。 左側のドアは開けると1階へ下る階段があり、右側の不思議な人魂のような形の開口部は奥の食堂へつながっている。 だが、その2つの形と関係はあまりに変で、(不思議な会話をしているようで、)初めてこの写真を見た時はどういうわけか、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い」を思い出した。そして、どこかシュールでおもしろいと思った。 そのほか、階段の手摺も巨大な数珠が並んでいるようで、なんでこうなったのかしらん?という感じだ。外部テラスや屋上へ上る階段の手摺も鉄筋をフープ状に曲げて膨らんだオブジェのようで、実際に触るというよりは愛でる(目で愛する)感じだ。 内外の壁もロンシャンのようにモルタル吹付けで光の粒子がデザイン化されている。 ヴィラ・クゥクゥ('57)にも言えることだが、赤星邸はディテールを隅々まで検証し直し、不思議化されている。 こうした不思議な発見はほとんどの住宅で散見できる。 浦邸('56)のピロティ下のコンクリートには乾く前にいろん言葉や記号が描かれている。 アプローチの床には「Knock and it shall be opened unto you」(叩けよ、然らば開かれん)の聖書の言葉が書かれ、来訪者を出迎える。また、勝手口の階段下には葉緑素の化学記号がなぜだか描かれている。(実際、浦邸はツタで覆われ、樹木で囲まれている) 洗面所の鏡は人魂のように不整形だし、ホールのスイッチプレートはカラフルに塗り分けられている。外壁のレンガの凹凸はまるで恐竜か爬虫類の皮膚のようだ。 これらはほぼ同時期につくられた吉阪自邸('55)とリンクしている。 自邸は階段を上ってくる来訪者を先ず耳の形?をした窓が迎える。その横には(余程の人でないと意味は分からない)漢詩が書かれ、玄関脇には「AUDOCES FORTUNA JUVAT」(大胆なれば幸運を掴む)の言葉がある。 この建物はコルビュジェのドミノ・システムのようなコンクリートのラーメン構造のスケルトンの間にコンクリートブロックが挟まっているのだが、それだけでは単調で味気ないものになってしまうのでレンガを所々に挟み、模様が描かれている。(ブロックが一重だったせいもあるが、これが結果的には命取りとなり、大雨の時のレンガの目地からの雨漏りは凄かったようだ) 私は自邸の前にあるU研によくコンペの手伝いに行ったが、その時、自邸の前の書庫('64)のおばけ(オバQ?)のタイル絵にボールを当てて一人でキャッチボールしているスタッフの姿によく出くわした。 この書庫はヨシザカの本が大学や自邸に入り切らなくなったので、リブコンのパネルを現場で組立てるという、安価で早い工法でつくられたのだが、そこはさすがにヨシザカとU研で、ただののっぺらぼうなコンクリートパネルにはせず、見本のタイルをおばけの形に並べて工場で打ち込んでいる。 こうしたユーモアはどこから来るのだろう。 ユーモア(Humor)は体液を意味するフモールが語源だとする説と、Humanから来ているという説がある。後者であれば、ヨシザカとU研の「ユーモア」は合点がいく。 彼らは常に自然と人間の生活の調和を第一義に考え、それと形との接点を追い求めていた。それらは互いにフィードバックして一つに修練していくが、万が一それが上手く行かなかったとしても、形のために人間の生活が犠牲になる、ダメになる、という思考経路や結果を彼らはけして選ばなかった。そして形が人間化されていく、Humor化されていく道を彼らはいつも選んだ。 建築の世界からどんどんユーモアが消えていくのを感じる。 早く、安く、簡単につくる中で、何のためにつくるのか、誰のためにつくるのか、そのためには何をしなければならないのか、を立ち止まって考える、感じることが無くなっている。 こうした時代に、もう一度ヨシザカとU研の残した建物の意味を考え、受け継ぐことは大切だ。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-04-28 13:44
2015年 03月 26日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇7.ある登山家の家 以前、友人のKさんが主催する成城の建築ツアーに同行したことがある。 Kさんは本当はグラフィックデザイナーで、本のデザインやサイン計画などが本業だが、趣味が高じて建築探偵家の二足のわらじを履くようになり、いつのまにかそちらの方が専門になってしまった変わり者だ。それもそんじょそこらの建築探偵家ではなく、超が付く程ののめり込み様で、一緒にまちを歩いていると必ず「この辺に◯◯さんがつくった××があるんですよ、ちょっと観に行きましょうか」と誘われ付き合ったことは何十回もある。頭の中に地図と建物と建築家がいつもプロットされてて自動的に反応する感じだ。 だが、さすがのKさんもこの建物(樋口邸 '66)はノーチェックだったらしい。 実は私もこの建物は雑誌「建築」7101のU研特集でチラッと見ただけで、実際それが現存するのか、どこにあるのか知らなかった。だからツアーの最後の方で突然この建物が目前に現れた時の驚きと感動は凄かった。それまで見て来たすべての建物の印象が吹き飛んでしまった。 都内でも珍しい自然がそのまま残る国分寺崖線に沿ったゾーンを歩いている時だった。 突然、急傾斜のコンクリートでできた屋根がグワッと現れた。 まるで怪獣か生き物のようだ。 何なんだ?これは!という感じで、全員上を見上げた。 それは荒々しいコンクリートの打ち放しで、急傾斜の所々には鎖や足を掛ける穴などもある。まるでロッククライミングの練習場だ。(今ならさしづめボルダリングの石が敷き詰められてる感じか) みんなでザワザワ話をしていると、初老の住人がそれに気づき、2階からゆっくり降りて来る。実は先程似たようなケースがあり、そこの住人にひどく叱られたばかりだ。 ヤバい!まただ!! ところが、ここの住人はやさしく微笑みながら「どうしました?」と尋ね、Kさんがツアーの目的を説明すると、笑いながらこの家ができた経緯を話してくれた。 それによると、住人のHさんもW大の山岳部の出身で、そのつながりからヨシザカとU研に設計を頼むことになったらしい。 打合せの途中で誰かが冗談のように屋根にも登れたらおもしろいと言ったので、それもいいですなあと言ったらこうなったとか、平面も直角ではなく角度が振れているが、それも四角よりおもしろいと言われ、そうですなあと相槌を打ったらそうなったとか、とまるで他人事のように飄々と話をされる。 執着心が無いというか、自然体というか、聴いてて不思議な仙人の話を聞いてるような感じだ。 「建築」7101を見ると、この家は最初に斜線制限一杯に建物を寄せて外側の屋根の形状を決め、その中に3方向の軸線を組み合わせながら120°の変則六角形の平面を押し込み、最終的にはスタディ模型を繰り返しながら全体は決められている。 六角形は円に少しでも近づけようとする気持ちだ。 つまり、大屋根の下に宇宙がある感じだ。 とても大きい建物に見えるが、前面道路と背後の崖との距離はあまり無く、敷地は意外と狭い。当然ながら4層分のフロアを行き来することになるが、登山家のHさんにとっては日頃から山登りの練習をしている感覚なのかもしれない。 作り手と施主が一致している希有な建物を久しぶりに見た。 こういうのをいつかつくってみたい。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-03-26 15:49
2015年 01月 17日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇6.自力建設 研究室会議でヨシザカの口から何度か出てきた言葉に「自力建設」がある。 これは先に述べた「発見的方法」と同様、昭和40年の伊豆大島の大火で現地に乗り込み、学生らと街中を踏破して行く中で身体的に得た感覚ではないかと思う。 つまり、よそ者が勝手にやってきて綺麗な復興計画案をつくり、お上の力で勝手につくるのではなく、現地の人とよそ者とが一体となって、よそ者は知恵を出し合い、現地の人は主体となって復興を担う(時には力仕事もおこなう)ようにしようとした時、自然と導かれていった結論ではないかと思う。 また、形式的で遅々として進まぬ計画案よりも実際に行動に移した方が手っ取り早いし現実的だという直接的理由もある。ヨシザカは理論よりも実際の行動を重んじる人間だ。 だが、この考えは自ずから建築家のレゾンデートルを脅かす危険性もある。 つまり、ルドフスキーの「建築家なしの建築」('64)で、建築家が出現する以前の方が世界は美しかったというパラドクスだ。そしてルドフスキーより前にヨシザカはこれと似た「環境と造形」('55)という本をまとめている。 (ただしヨシザカの場合は現代建築への批判というより、形の起源を追い求めた好奇心の織りなす旅という性格が強く、荒削りだがより純粋で根源的な感じがする) 建築家にはデザイン至上主義的な感じ方と、デザインを放棄してでもより価値のあるものへ従いたいと思う感じ方の二通りがあって、通常はそのアンビヴァレンツに悩むのだが、ヨシザカの場合はそれらが当初から両性具有し、比較的スムーズにアウフヘーベンしていたように思う。 だから自力建設といっても一方的にデザインを放棄したのではなく、もう一つの新しいデザインの在り方として捉えていた節がある。
こうしたことに気づき、深く考えるようになったのは、やはり実務に就いていろんな土地やまちに出かけ、多くの問題と直面するようになってからのことだ。 部屋の中で机に向かっているだけではわからないことは一杯ある。 先月も富士吉田のコンペで同じような経験をした。 このコンペは、かつては富士山信仰と織物業で栄え、現在は衰退している富士吉田のまちを、富士山の世界遺産登録を機にふたたび復活させようとするまちおこし・まちづくりのコンペで、部門は3つあり、私達はまちの外れにある今は使われていない製氷工場を地域のクリエイティブの拠点にリノベする部門に参加した。 実際、現地を歩いてみるとシャッター商店街が続き、かつての歓楽街も空き家が目立ち、疲弊は明らかだ。だが、これは日本全国どこの地方都市でも同じ状況で、だからその突破口を誰かが開かなければならない、その一つになれれば、という思いで参加した。 でなければ、1等賞金でも30万で、実際のリノベ費用は1500万以内なんて無茶なコンペには参加しない。まちを調査し、案をつくり、提出するだけでも既に持ち出しなのだから。 最終的に私達はオール富士吉田による全員参加型のまちづくりを提案した。 最初に限られた予算を有効に使い最小限の手を加えてトイレやキッチン、照明、階段、玄関部分など基本的な部分をリセットする。 次に内部の家具や什器、内装を富士吉田在住もしくは出身の作家、職人、アーティスト、市民、学生、子供、老人、障害者、ボランティアの力を結集してつくり、それぞれの作品には作者の顔、コメント、連絡先、価格を表記したタグを付け、作家のショールーム、ショーケースとする。 外装も富士吉田市内の小学生や幼稚園児、障害者に下絵を描いてもらい、それを大人が断熱塗料で描き、建物のアイデンティティと断熱性、メンテナンスを得る。 そして使うクリエイター達には外部に向かって積極的に活動を情報発信してもらい、次第に観光客や企業のマーケターで賑わうようになり、第2、第3、第4のリノベがおこなわれ、富士吉田のまちが復活していく、というストーリーを組立てた。 つまりデザインをするのではなく仕組みとプロセスを描くことで、市民参加型の自力建設によるまちづくりを提案した。 だが、私達の案は選ばれなかった。 最終に残った3案の公開審査を聴きに行った。 最初の案は壁を取り払って3面をガラスと棚で覆い、内部は床も一部取り払う大改造で、都会的でカッコイイけど一体いくらかかるの?という内容で、コストや場所性は完全に無視されていた。 次の案は本体の改造に加えて中庭側に大階段のデッキテラスを設けた(むしろこちらを主役にした)案で、やはりコストは無視されていた。それに対する審査員の質問にも、第1期に1500万で1階だけつくり、様子を見ながら2階、3階をつくれば、という回答だった。第1期だけでインパクトが無く終わってしまうのは見え見えだ。 3つめの案は理科大の研究室の案で、鉄骨のスケルトンに戻した中にもう一つの木のフレームを挿入し、木と鉄骨の対比を狙った力作だった。ただ、これもとても1500万でできる代物ではなく、案を作成した学生達が全員手弁当で無償で完成までずっと働くことが最低条件だ。 結局、3つめの案が選ばれたが、いずれにせよ、こうしたコストや労力を無視したコンペを仕掛けておきながら、外部からの無償の行為に依存し、従来通りのデザイン重視の審査をおこなった危機感のまるで無い事務局や審査員達にはひどく失望した。 これでは自分達の力で富士吉田が復活することなどできるわけがない。 お金が無ければ自分達でやる。 自分達でやるから愛着もわき、自信にもつながるのだ。 私はこれからもヨシザカの「自力建設」を自分自身に問い続けながら、いつかそれを実現したいと思う。そして地方の疲弊を自ら救う手伝いをしたいと思う。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2015-01-17 19:37
2014年 12月 22日
「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 拾遺篇5.発見的方法 今までで一番読んだ回数の多い雑誌は「都市住宅」7508だ。 この雑誌は68年の創刊から75年末まで植田実さんが編集長を務めた伝説的な雑誌で、売れる売れないよりも深い問題意識に根ざして住居系のあり方を問い続けた、今日の雑誌とは一味も二味も異なる骨っぽい雑誌だ。 75年の年間テーマは「町づくりの手法」で、8月号は「特集|発見的方法 吉阪研究室の哲学と手法その1」だった。この号は研究室のそれまでの活動を75年の時点で先輩達がまとめたもので、(80年にヨシザカは亡くなったから)その2は出ていない。 当時大学2年だった私は(ずいぶん細かい文字の多い雑誌だな)と思いながらも本屋で買って拾い読みした。研修室に入ろうと思い始めた頃には真剣に読んだ。そしていつしかバイブルとなった。 多くの重要なキーワードが見開きの2ページ程度で解説されている。いわばこれはショーケースで、その内容はイントロダクションに過ぎないのだが、全体像はなんとなくわかる。 それらを束ねる言葉、特徴的な手法として、特集の標題にもなった「発見的方法」という文章が始めの方に出てくる。書いたのは地井(昭夫)さんだ。 それはこんな書き出しで始まる。 「発見的方法とは<いまだ隠された世界>を見い出し、<いまだ在らざる世界>を探るきわめて人間的な認識と方法のひとつの体系である」 そして昭和40年に大火被害を受けた伊豆大島の元町を訪れた時のことを次のように語る。 「・・・はじめて大島を訪れて焼跡に立った時、私たちがなし得た最初のことは、確信の持てる方法論を何も持たないままいわば<焼跡に放り出された自分>を発見することであった。そして裸のまま、自らの目と足で島のあちこちを歩き廻っているうちに、そこに<私たちによって作り変えられるべき世界>ではなく、全く逆に<私たちひとりひとりがそれによって支えられている世界>を発見することになった。この2つの<発見>の帰納的総括から、もはや発見的方法としかいいようのないものの存在を確信するに至ったことは必然的であった。 ・・・発見とは徹底的に部分的であってよい。私たちの伊豆大島から始まった発見的方法の展開は、その後全国各地において試練に立たされることになった。都市において、山村において、農村において、漁村において、島において、それは必ずしも<見通しの明るい>ものではないが、しかし<部分の合理>が存在することについてだけは確信がある。そもそも地域計画とは、認識論的にいえばいまだ隠された<部分の合理と自立>を発見することであり、方法論的には<いまだ在らざる部分の新たなる顕現>を決断することに他ならない。」 少々堅い書き方だが、地井さんの高揚感が伝わってくる。 地井さんはその直前に丹後・伊根浦で海辺に舟小屋が並ぶ美しい集落と出会い、それに魅せられ、肉体と感じる心を駆使したフィールドワークで発見的方法を実践しながら多くの漁村の成り立ちと住居の始まりの研究にのめり込んで行った。 (その成果は地井さんの死後、遺稿集「漁師はなぜ、海を向いて住むのか?」にまとめられた。これを読むと論文集でありながらどこか詩的なものを感じる) 地井さんとは酒の席で話をしたことがある。 たぶん、コンパか何かで、私が、人間は20代までに直感的に感じたこと考えたことを30代以降は時間をかけて検証しているに過ぎない、と生意気なことを言った時、ヨシザカの隣の席で飲んでいた地井さんが突然、 「キミ、よくわかるね!本当にそうだよ!!」とうれしそうに相槌を打った。 地井さんの卒計はアーキグラムのような未来都市が連続するもので、一つの単位を精妙に描いた後それをコピーしてつなげたものだが、こういう作業をしながら、本人はその嘘臭さに初めから気づいていて、案外冷めていたのかもしれない。 だからそれとは180度異なる、人と人とがつくる共同体の重要性に惹かれ、その研究に没頭したのだろう。 私は地井さんのような研究者ではなくデザイナーだ。 デザインはともすると形態や色のことだと感違いされ、その新奇性に目が奪われがちだが、その根幹には、連綿と続いて来たコミュニティの歴史や気候、風土、習慣など諸々の要因が絡んでいる。それらを心と身体を総動員して謙虚に学び、発見しながら、良いものは継承し、悪いものは未来に向かって組み立て直し、提案する。 発見的方法はそのような方法だと思う。 そして私なりに実践している。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2014-12-22 23:17
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