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2014年 05月 17日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 21.北アルプス M2の夏、ヨシザカと北アルプスに行った。 (M1の夏は裏磐梯の合宿と重なって行けなかった) 吉阪研の北アルプス行きには規則があって、上高地へ直接車で入るのはNGだった。 それはヨシザカがスーパー林道の建設に自然保護の観点から反対していたからで、昔ながらの徳本峠(とくごうとうげ)越えのコースで入るのがルールだった。 深夜、新宿駅にヨシザカを除く一行が集まった。 (ヨシザカは別用があり、「新島々」の駅で朝5時に落ち合うことになっていた) 最終の中央本線で松本まで行った。車内はガラガラで、横になって寝たが、列車の動きでなかなか寝付かれなかった。(ODrのFさんは床に新聞紙を敷いてグウグウ寝ていた) 早朝の4時頃松本に着き、そこから30分程で「新島々」に着いた。 駅とは言っても、ほとんど無人駅のようなガランとした感じで、誰の姿も無い。 本当にヨシザカは来るんだろうか? 5時になった。 やっぱり来ない。そう思った矢先、駅の端の暗いベンチが動いた。 ヨシザカだ! なんと我々より先に来て、ベンチで仮眠していたのだ。 でも、どうやってここまで来たのかしらん? 天狗にでも運ばれてきたのかしらん? みんなでウォーミングアップの体操をした後ゆっくり歩き始めた。 島々まで来ると山道に入った。 ヨシザカの指名で、先頭は私になった。 いつもあの走るようなスピードで歩く姿を見ているので、これは頑張らなければ、と気合いが入った。途中でみんなの付いて来るのを確認すると、意外や意外、ヨシザカのスピードは一番ゆっくりで、しんがりを歩いている。 疲れたのかなと思い、早めに休憩した。すると、ヨシザカは 「みぞぶち、もっとまわりの景色を見なさい! お前は何のために山に来たのだ!」 と言った。 ハッとして、その後はゆっくり楽しみながら登った。 ゆっくり登ったのに、岩魚留小屋には昼過ぎに着いた。 今日はここで一泊するのだ。荷物を下ろし、みんなで岩魚がいる川に行った。 もちろん素人の私達に岩魚は捕獲できない。代わりに主人が捕まえておいた岩魚が振る舞われ、いつしか囲炉裏の周りにみんなが集まり、ヨシザカの山岳部時代の話を聞く。 この峠は何十回も行き来したのだそうだ。下級生の頃は、行きはリュックの中は食材の野菜で重く、帰りは空っぽになった分に石を入れられ、鍛錬だ!としごかれたが、ちっともいいとは思わなかった、と言った。 西洋合理主義と個人主義に幼い頃から接していたヨシザカには、さぞかしそれは理不尽な行為に感じたことだろう。 次の日は上高地めざして徳本峠を登っていった。峠を越えるとやがて下りになり、ちらちら上高地が見える。徳本口まで行くとほぼ平坦になり視界が開け、そこから徳澤園までは長く感じた。 途中で早稲田の山岳部とぶつかった。途端にヨシザカの周りに人垣ができる。 ヨシザカは山岳部の会長なので、いろんな人が話しかけて来る。 私達はその場で休憩し、一段落するのを待った。 ところが何とヨシザカは山岳部の連中と話をしながらそのまま移動し始めた。 私達は隊長を盗られてしまったのだ! 「まあ、いい。俺達だけで登ろう!」とFさんが言うのでそうすることにした。 その日は徳澤園に泊った。 3日目は涸沢に行った。もちろんヨシザカとU研の設計した涸沢ヒュッテを見るためだ。 雪崩から身を守るために石垣で囲まれ、要塞のようだった。突風から身を守るため屋根も低かった。そんな中にあって畦地梅太郎のひょうきんな絵柄の暖簾や版画が飾ってあり、おもしろかった。 一休みして北穂高に向かった。いよいよ本格的な登山の始まりだ。 結構きつい岩場が何カ所かあった。途中でガスって来たので、その度に休憩した。 山頂に登り、直下の北穂高小屋に泊った。 4日目は大キレットー南岳ー中岳ー大喰岳ー槍ヶ岳の縦走をした。 大キレットで強風に煽られ、一瞬ヒヤッとするシーンがあったが、事無きを得た。 南岳を過ぎた辺りからガスが出始め、中岳に行く途中でとうとう先頭がルートを見失ってしまった。岩に描かれているマークがどこにも見当たらない。全員青くなる。 だが、どういうわけか私には方角の感覚がある。 「俺が先頭を行く」と言うと「ああ、みぞぶちが行くのがいいだろう」とFさんが言った。 それからは霧の中、夢中で歩いた。 とうとう絶壁近くまで来て、「本当にこのルートで合ってるんだろうか」と誰かが言った時、霧が少し晴れて真っ直ぐの方向に槍が見えた。 「ほら、みろ!合ってただろう!」と得意になって言った。 それからは霧が晴れて槍まで一直線に進んだ。 槍の頂上に登り、そこから北側を見下ろすと、加藤文太郎の死んだ北鎌尾根がぽっかり口を開けている。黙祷した。 槍ヶ岳山荘に泊まった。 翌日はただひたすら下山するだけだった。 槍沢を過ぎ、横尾まで来た時、もと来た道を振り返りながら思った。 せっかく苦労して山に登ったのだから、こんなに早く降りなくても良かったな 山頂にもう一泊して、朝から夕までボーッと景色を眺めていたら 何か違うことを考えたかもしれない ヨシザカは亡くなった年もFさんと一緒に山に登ったそうだ。 (Fさんの話では、さすがにその時は元気がなかったらしい) 死ぬまでヨシザカは山に行くことをやめなかった。 たぶん、下界で汚れた心を毎回山で浄化し、ふたたび下界に戻ってきたのだろう。 ヨシザカが私達のような、まだどうなるかもわからない学生と真摯に接し、功成り名を遂げた人間をむしろ疎んじたのは、それはヨシザカがピュアだったからだ。 それはたぶん山の成せる力だったのだろう。 かずま ![]() #
by odyssey-of-iska5
| 2014-05-17 21:24
2014年 05月 08日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 20.天元台スキー 私は2度、ヨシザカとスキーに行ったことがある。M1とM2の冬だ。 (吉阪研は夏は北アルプス、冬はスキーが定番だった) M1のスキーは山形の天元台だった。天元台は米沢に近く、吉阪研は以前、研究室を上げて米沢を調査研究し、街をバックアップしていたので、その縁だったのだろう。 上野に全員集合した時、ヨシザカはお嬢さんに 「皆さんにきちんとご挨拶をしなさい」と言った。 「ヨシザカタケコです。これから4日間、皆さんのお世話になります。どうかよろしくお願いいたします」と丁寧な挨拶を受け、みんな恐縮した。 天元台は麓に白布温泉があり、そこに茅葺母屋の宿が何軒かあった。 ヨシザカは温泉が好きで、私達が「野沢温泉ロッジ(U研究室の作品)に泊りたい!」 と言っても、 「あそこは建物内に温泉が無いから」と言って却下された。 着くと皆の先頭を切って早々と温泉に入った。あわてて追いかけ、みんなも入った。 温まったと思うやすぐに5分くらいで出てしまう。本物の烏の行水だ。 噂通り晒の褌を股にささっと引っ掛け、浴衣と丹前を着てさっさと居なくなった。 天元台は麓からロープウェイで上に上がり、そこからスキー場が始まるのだが、何と3日間吹雪いてロープウィが止まってしまった。 「私は晴れ男なんだが・・・」とヨシザカは言うが、絶対嘘だ。 弱い晴れ男である私の力では、強大な雨男のヨシザカにはいつも勝てない。 やることがないので、毎日、温泉に入ってばかりいた。ヨシザカは一日6回は入った。 それ以外は部屋でTVを見ながら談笑し、酒をよく飲んだ。 3日目の昼過ぎ、ライオン丸というあだ名のH君が来た。 途端に天気が良くなり、初めて上に上がって滑った。 次の日は朝から快晴で、3日分のビハインドを取り返すべくガンガン滑った。 天気に関してはライオン丸の方がヨシザカより強いことを知った。 こうして楽しかったスキー旅行は終わった。 今から思うと、こういう野外の場でヨシザカと建築の話をしたことは一度も無い。 なのに、何かを教わったり感じたりすることは多かった。 もっともっと一緒に旅すればよかった・・・ かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2014-05-08 20:30
2014年 04月 12日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 19.「語学」のすすめ ヨシザカは宴席で乾杯の音頭をとる時、いつもこう言ってた。 「では、皆さんと一緒にイタリア語で大きな声で乾杯しましょう! チンチン!!」 「チンチン!!」 そうやってその場の雰囲気を和らげていた。 実際、何カ国語を話せたのだろう? お父上が外交官で、小さい頃から何度も日本と外国との間を行き来し、その影響でコスモポリタン的思考をするようになったのだろうが、言語に対してはとても敏感で、ラテン語や漢字の原典に戻って解説し、いつもそこから議論を始めていた。まるで頭の中に言語辞典があるかのようだった。 多分、そうすることで、同質なものと変質したものとの違いを理解しながら、来し方行く末を考えていたのだろう。聞いてて地理的差異と時間的差異の両方をいつも感じた。 逆から言うと、ヨシザカは地理的差異と時間的差異をいつもパラレルに扱いながら何かを考えていた。だから研究室はどこか民族学研究所や考古学研究所の匂いがした。 もしこういう観点から語学と最初に出会っていたら、私も語学アレルギーに陥ることなく数カ国語を話せるようになっていたかもしれない。 だが、中学でいきなり英語の教師と喧嘩し、おまけに受験勉強に過剰に反応して反抗的だった私は、英語だけでなく、大学に入ってからの第2外国語のフランス語もほとんどサボリ続けた。 だからヨシザカに会って初めて語学に目覚めた。語学が単なる話すためのツールではなく、地球上の文化と色濃く交わる思考のツールだということを理解した。 (この考えは30の時にヨーロッパ16ヶ国を放浪して確信ヘと変わった) 研究室にはいつも外国からの留学生や他大学の教授が在籍していた。 私達の代は台湾からKさんを筆頭に3人のODrがいた。3人とも日本語は日本に来てから使い始めたのでそれほど流暢ではなかったが、意思の疎通は十分にできた。(それでも3人で会話をする時は中国語だった) ある時、Kさんの奥さんとお子さんに会ったら日本語がペラペラだったので、 「日本の方ですか?」と訊いたら、「いいえ、台湾人です」と言う。 聞けば、子供の学校のPTAで母親同志で会話する機会が多かったので、自然と流暢になったのだという。 語学は結局は慣れだ。 私は大学時代、ハンス・シャロウンが大好きで、彼について書かれた日本語の本はたくさん読んでいたが、ドイツ語の文献は(読めないので)ノーチェックだった。 ある時、親友のH君が持っていたドイツ語のシャロウンの本を借りて写真を眺めていたが、どうしてもその内容が知りたくなった。 卒論の指導をする代わりにこの本を翻訳すること、という内容の卒論生希望の貼紙を出したら、2人が引っかかった。I君とB君だ。 I君はドイツ語を習得してたのでOKだったが、B君は(フランス語はペラペラなのに)ドイツ語はさっぱりだった。で、どうするの?と訊いたら、父親の会社にドイツ語の堪能な人がいるので、その人を引き込むと言う。 少し困ったが、彼の性格がとてもいいのと、本の内容を知りたい誘惑が勝って結局OKし、翌週から勉強会がスタートした。 最初の頃は研究室でやっていたが、そのうちジャズ喫茶でやるようになり、だんだん脱線していった。最終的には分厚い本の半分くらいを翻訳し理解することで終わった。 だが、その最後の方に、人間の消化器官と有機的建築とのアナロジーについて語った部分があり、私はしてやったり!と思った。 そしてそれを研究室で話した。するとヨシザカは、 「有機的建築を英語で言うと Organic Architecture 。オーガニックと楽器のオルガンは元々同じで、語源はオルガノン。その意味は道具や器官だから、消化器官のアナロジーは当たり前だ」 と言った。私は少しギャフンと来たが、「文献で見つけたのは偉い」とも言われ、少し溜飲を下げたような気がした。 吉阪自邸には階段を上った玄関脇に耳の形をした窓と漢詩が貼ってあった。(昔、誰かに意味を聞いたが失念した) 不思議な玄関脇で、来客に何かを問いかけているような雰囲気があった。 和洋どちらでもなく、中国の古書から引いてるのがおもしろい。 似たようなのに、アルゼンチンのツクマン大学招聘教授として滞在中('61-'62)に地元のインディオから聴いた神話を吉阪流にまとめて出版した「宇為火タチノオハナシ」という小さな本がある。アンデスに古くから伝わるパチャママの物語で、たぶん、ヨシザカはこの語感も気に入っていたと思う。 それはこんなまえがきで始まる。 ・・・彼ら(註:インディオたち)はスペインに征服されるまでパチャママの 恵みを受けて平和に暮らしていました。今でもアンデスの高原では昔ながらに、 砂漠のような荒野に、静かに生活しています。しかし西洋(?文明?)の波が 押し寄せています。新しいパチャママが必要です。カップルの闇の世界から抜 け出して探しに行きたいと思っています。では……… 多くの言語に接し、多様な価値観を知ることで、複眼的多面的思考ができるようになる。 ヨシザカを見ているとそんな気がする。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2014-04-12 20:16
2013年 10月 02日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 18.「あそび」のすすめ U研の設計した建物にはユーモアがある。 (ヨシザカの体質だけでなく、大竹十一さんの体質も大きく影響している) 八王子の大学セミナーハウスの目をジュニア(同じ大竹性だったので、「後から入った若い方」という意味でそう呼ばれたのだが、初めてジュニアに会った時は、「何でこんな毛むくじゃらの男がジュニアなんて可愛い仇名なんだ?」と思った)が担当した時の話がおもしろい。 「セミナーハウス本館の詳細をやれと言う。(略)一カ所一ヶ月の期間がある。楽でいいなあと思う。ところが、これは大変厳しいことだと分かってくる。一カ所一ヶ月もやっていると、自分の持ち駒はもちろん、考えつくことは全部吐き出してしまうことになる。それまでは、どうも真面目につきあってもらえない。ボスは『あ、これはざんざらマコモのアマリリスね』などと、全くわけの分からないことしか言ってくれない。」(「建築文化」7909) 実は私もコンペを手伝っていた時に十一さんから似たような言葉で頭を引っ掻き回されたことがある。 万事がこんな調子で、U研では「あそび」と研究と仕事の間には境目が無く、行ったり来たりしながらすべてが進んでいたのだろう。だからユーモアや意外性のあるふっくらしたデザインが残った。今の効率と経済性だけを求めたギスギスした設計の現場からは決してこうしたものは生まれない。 同じような空気は吉阪研にも漂っていた。 ODrはいつも碁ばかり打ってパイプをプカプカくゆらし、何か真面目なことを言うと茶々を入れて引っ掻き回された。 「みぞぶちはここで何を研究するんだ?」とTさんに言われた。 「バラックを研究します」と答えると、 「おお!それはおもしろい」と言われ、 いきなり台東区の住宅地図を開いて、「じゃ、明日、ここに行ってこい」と言われた。 それは日本堤の横にある玉姫公園で、要するに山谷の中心だった。 次の日、そこに行って、いきなりしょっぴかれた。 「お前のような若い男がカメラを抱えて昼間からこんな所にいるということは過激派か何かで、労働者をけしかけて暴動でも企んでいるに違いない」と言うのだが、言ってる本人が人相が悪いので、 「お前こそ刑事なんかじゃなくて過激派だろう」と言い返したのが火に油を注ぐ結果となってしまった。私服刑事は怒って懐から警察手帳を出して連行し、交番で30分くらいお説教を喰らった。結局、無罪放免となったが、カメラで写真を撮る時は目立たないよう気を配るようになった。 その話を帰って研究室ですると、「じゃ、今度はここに行け」と、千束四丁目を指示された。昔の吉原遊郭があった所だ。 その名残りでソープランドばかりだったが、今度は気をつけて慎重に写真を撮った。 午後3時を過ぎた頃から街の空気が一変した。 キャデラックが停まり、中から凄い格好のオネエサンが出てくる。 思わずカメラを向けたら、 「今、オンナを撮っただろう」と恐いオニイサンが横から出てきて、すばやくカメラを取り上げ、フィルムを抜き取られた。 一人では危険だなと思った。 「バラックへの誘い(いざない)」というポスターを作り、研究室の前に貼ってカモを待ったら、下級生が2人掛かった。Y君とI君だ。 (Y君とはその後も仲が続き、香港の九龍城を一緒に見に行った。現在、彼は日本を代表するシンクタンクの主任研究員として活躍している。I君はこれが切っ掛けでインドのムンバイの住民闘争に関わったり、世界の危険地帯の武装解除に関わるようになった。現在は某大学の教授だが、未だにあの頃感じたことをスケールアップさせながら貫いている) 3人で「バラック研究会」を作り、おもしろいバラックがあると聞けばどこへでも飛んで行き、写真を撮りまくった。 立川の米軍基地(今の昭和記念公園)や根岸の森林公園横の米軍基地に無断で侵入した時は2度とも帰り掛けにMPに捕まり調書を取られた。 「2度捕まったら軍法会議にかけられる」とODrに言われたが、今の所、呼び出しはない。 研究室会議では毎回撮った写真を広げて、どこがおもしろいかを発表した。 今から思うと後に路上観察学会が本にまとめたようなことを先行して本能的にやっていたのだが、ただおもしろいというだけではそこに住んでる人や使っている人達に失礼だし、また形態論に限って話をするのは余りに表層的だし、どうまとめるかとても苦労した。 ある晩、寝ながら考えてたら、「ユーモア形態学」という言葉がふと浮かんだ。 英語で言うと「Humorphology」。 Humorとmorphologyを組み合わせた造語で、それを積分すると「Human Nature」になる。 目指す方向と組み立てはできたので、翌日、Y君とI君に説明をした。 すると彼らはこれまで撮り貯めてきた写真を細かく分類して瞬く内に体系だった論理にし、それを卒論にまとめた。 こういう風に興味のある事を夢中になってやり、行動することをヨシザカはいつも強く後押ししてくれた。一度もブレーキを踏まれたことはないし、それどころか「こういう手もあるぞ」と考えを広げてくれ、アクセルを全開にしてくれた。 私の人生であの2年間ほど夢中で生きた時間はない。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-10-02 23:38
2013年 09月 16日
![]() 「ヨシザカについて私が知っている2、3の事柄」 17.研究室の仲間達 吉阪研はW大の建築の研究室では一番大所帯だった。 M1、M2が5人ずついて、その上にD1、D2、D3、さらにその上にODがいた。 その他にも研究生や留学生、W大に他の国から来ている先生もいて、全員が研究室会議に揃うと入り切らないのだが、どういうわけだかそうはならなかった。(サボったわけではなく、いつも何人かは地方や外国に飛んでいた) 私は生意気だったので、逆に先輩達からかわいがられた。 とりわけ歳が同じかほとんど変わらないM2とは仲が良かった。(彼らのイラン国立図書館国際コンペを卒計間際まで手伝っていたので、同士のようだった) 中でもH君とは(彼の妹が高校の後輩なので)仲が良かった。 H君の修論を手伝いに彼の家に行ったが、修論の話より音楽の話ばかりしていた。 特にクラプトンのクリーム時代やそれ以降の話が多く、「ベルボトム・ブルース」を彼がギターで弾いたりして、半ば遊んでいるようだった。 H君の修論は日時計の考察と設計だった。エスキスを見ると、コルビュジェのフィルミニヴェールの教会のように断面が台形の形をした展望台だった。が、これだと建物の影が邪魔して上手く行かない。 「逆にしたらどうだろう?」と言って、そばにあった割箸と紙とテープで2、3分で模型を作って見せた。すると、「これだ!」と言って、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を再び彼がギターで弾き始めた。 (このエスキス模型は気に入ったので、私が貰い受け、今でも事務所にある) その後もH君とは兄弟のような付き合いが続いている。 30の時に私がヨーロッパを放浪したのもローマからの彼の葉書が切っ掛けだった。 (その時の写真(at Roma 1984.2)を先日彼が「整理してたら出て来た」と言って送ってくれた。とても懐かしかった) ![]() Mさんは博学多識で、特に雑学系が強く、私は日活ロマンポルノの変遷や日本プロレス史などを教わった。 Mさんの修論の手伝いをした時は(私が風邪で高熱を出したので)ほとんど役立たずだった。なのにとても歓待してくれた。 「みぞぶちが来たんだから、これだな」と言ってMさんの双子のお兄さんが真空管を出してきて、ステレオでJazzをかけてくれた。真空管が温まるまで待つのだが、その間に珈琲が出てきて、これまた遊びに来たような感じになった。 (マイルスの「Four & more」を初めて聴き、トニー・ウィリアムスのドラムの凄さを知ったのもこの時である) もう一人のMさんとも仲がよかった。よく一緒に酒を飲んで建築の話をしたが、いつもカウンターパンチを喰らうような感じで刺激的だった。 (今年の春に15年ぶりに会ったが、いきなり「俺はお前が嫌いだ」とアッパーカットを喰らった。「なんで?」と訊いたら「昔、ヨシザカに『お前はみぞぶちに負けている』と言われた。だから俺はお前が嫌いなんだ」と彼らしい言い方で答えた。 多分、私とMさんはとてもやんちゃでいつも研究室を引っかき回していたので、もし本当にそう言ったのなら、ヨシザカは「もっとやれ!もっとやれ!」とMさんにけしかけたのだろう) 後輩とも仲が良かった。 特に喜多方出身のY君とはウマがあい、よく飲み、よく話をし、夜明かしをした。 彼の目白の下宿で朝まで飲んだ時は、クラプトンとジェフ・ベックとジミー・ペイジの弾き方の違いを彼がエレキギターで実演してくれた。 朝になって別れる時、「いいものを見せてあげましょう」と言って池袋まで送ってくれた。「これです」と言って途中で立ち止まった。 フランク・ロイド・ライトの自由学園の「明日館」だった。 良く手入れされた芝生の中にシンメトリーに配置されたそれは、周囲とは別世界の、まるで天国のような建物で、目から鱗と言うか、突然酒から醒めて、思わず見入ってしまった。 その後何度も「明日館」には行ったが、あの時の鮮烈な出会いは忘れられない。 他の大学から来たH君とも仲が良かった。 H君は議論好きで探究心が強く、ナイーブで芸術家肌で、何にでも興味を示した。やはりウマがあい、よく建築やアート、音楽、映像の話をした。 このことが二人の将来に少なからず影響するとは、その時は思いもしなかった。 (H君は今や日本を代表するゲームソフト会社のトップだが、彼が昔ヘッドハンティングにあって悩んでいた頃、絶対向いてるから行った方がいいと言ったのは私である。 反対に、生涯の友人でありクライアントでもあるマニラのMさんに「あなたの夢を叶えてくれるのはこの人です」と言って私を紹介してくれたのは彼である) 同期の仲間とはもちろん仲はよかったが、とりわけAとは不思議な仲だった。 Aは建築家の名前や建築のことを何も知らなかった。(「フランク・ロイド・ライトの名前は知っている」と言ったが、それもサイモンとガーファンクルの曲で覚えたのだ) が、映画や音楽の話になると俄然違い、博学多識、饒舌雄弁になって、次から次に話が始まり止まらなかった。 Aは実はアマチュア映画界では知られた存在の映画監督で、大学四年間はほとんど映画作りに時間を費やし、その合間に建築の課題を出していた。吉阪研には推薦で入ったが、試験では多分無理だったろう。(推薦で申し込みを出したら、ある晩、蒲田の自主上映会の会場に突然ヨシザカがやって来て彼の映画を観、ハンコンを押してくれたのだそうだ) 彼のおかげで私の(映画と音楽における)ミッシングリンクはほとんど解けてつながることができた。 吉阪研は野球は弱かったが、よく試合をした。 試合前の研究室会議は必ず野球の練習に代わり、大学のそばの空き地でみんなでバッティングとノックの守備練習をした。そしてその後「葉隠」に行き、焼き鳥を食べながら飲み騒ぎ、ワイワイガヤガヤ議論するのが常だった。 私は青春を謳歌していた。 大学院に入った当初、ヨシザカはハーバードの客員教授でいなかった。 6月に戻って来た時、最初に挨拶をしたら、 「これから2年間よい思い出をたくさん作ってください」と言われた。 (冷たいな〜!)と思った。 2年間などと言わず、俺はこれからずっと一緒に冒険の旅をして、楽しい思い出をたくさん作って行こうと思っていたのに・・・ だが、結果的にはそうなった。 ヨシザカがその時自分の病を予知していたとは思えない。 この言葉は、人生は一期一会なのだからいつでも悔いの無いよう、思いっきりやりなさいという激励だったのだ。そして実際、ヨシザカはそのように生きた。 同じようなことは言葉を変えて何度か言われた。おかげで私はいつも飛ぶことができた。 かずま #
by odyssey-of-iska5
| 2013-09-16 20:44
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